く一種の霊あるものであろうと、お徳は想像した。そうして、かれが再び引っ返して来るのを恐れるように、お徳は表の戸に栓をおろした。
「それでもすなおに鯉をわたしてやってよかった。うっかり逆《さか》らったらどんな祟りを受けたかも知れない」
禁断の魚を捕るということがすでに逃がれがたい罪である。その不安に絶えずおびやかされている矢さきへ、測《はか》らずも今夜のような怪しい女に襲われて、お徳はいよいよその魂をおののかせた。夫が帰ったならばすぐにこの話をして聞かせて、今夜かぎりに夜釣りを止めさせなければならないと思いながら、再び長火鉢の前に坐りかけると、檐《のき》の雨だれの音がときどきに聞え始めた。又ふり出したのかと耳をかたむけると、雨の音はだんだんに強くなるらしい。それが今夜のお徳に取り分けて侘《わび》しくきこえて、洗いざらしの単衣《ひとえ》の襟がなんだか薄ら寒く感じられた。かぜでも引いたのかと、肩をすくめて身ぶるいする時、表の戸を軽くたたく音がきこえた。亭主が帰って来たのだろうと思いながら、さっきの女客におびえているお徳はすぐに起つのを躊躇していると、外では焦《じ》れるように小声で呼んだ。
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