下で堰《せ》き止めてあったからです。なぜ堰き止めたかというと、むかしは御留川《おとめがわ》となっていて、ここでは殺生《せっしょう》禁断、網を入れることも釣りをすることもできないので、鯉のたぐいがたくさんに棲んでいる。その魚類を保護するために水をたくわえてあったのです。勿論、すっかり堰いてしまっては、上から落ちて来る水が両方の岸へ溢れ出しますから、堰《せき》は低く出来ていて、水はそれを越して神田川へ落ち込むようになっているが、なにしろあれだけの長い川が一旦ここで堰かれて落ちるのですから、水の音は夜も昼もはげしいので、あの辺を俗にどんどん[#「どんどん」に傍点]と云っていました。水の音がどんどん[#「どんどん」に傍点]と響くからどんどん[#「どんどん」に傍点]というので、江戸の絵図には船河原橋と書かずにどんど橋[#「どんど橋」に傍点]と書いてあるのもある位です。今でもそうですが、むかしは猶さら流れが急で、どんどん[#「どんどん」に傍点]のあたりを蚊帳《かや》ヶ淵《ふち》とも云いました。いつの頃か知りませんが、ある家の嫁さんが堤を降りて蚊帳を洗っていると、急流にその蚊帳を攫《さら》って行かれるはずみに、嫁も一緒にころげ落ちて、蚊帳にまき込まれて死んでしまったというので、そのあたりを蚊帳ヶ淵と云って恐れていたんです」
「そんなことは知りませんが、わたし達が子どもの時分にもまだあの辺をどんどん[#「どんどん」に傍点]と云っていて、山の手の者はよく釣りに行ったものです。しかし滅多《めった》に鯉なんぞは釣れませんでした」
「そりゃあ失礼ながら、あなたが下手だからでしょう」と、老人はまた笑った。「近年まではなかなか大きいのが釣れましたよ。まして江戸時代は前にも申したような次第で、殺生禁断の御留川になっていたんですから、魚《さかな》は大きいのがたくさんいる。殊にこの川に棲んでいる鯉は紫鯉というので、頭から尾鰭までが濃い紫の色をしているというのが評判でした。わたくしも通りがかりにその泳いでいるのを二、三度見たことがありますが、普通の鯉のように黒くありませんでした。そういう鯉のたくさん泳いでいるのを見ていながら、御留川だから誰もどうすることも出来ない。しかしいつの代にも横着者は絶えないもので、その禁断を承知しながら時々に阿漕《あこぎ》の平次をきめる奴がある。この話もそれから起ったのです」
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