、ふたりは離れ家のようになっているひと棟のなかへ案内された。座敷は十畳と八畳ぐらいの二た間つづきになっているらしかった。
ここで半七をおどろかしたのは、かの勝次郎の親方の大五郎が暗い顔をして、線香の煙りのなかに坐っていることであった。自分たちよりも先《せん》を越して、大五郎がここに来ていようとは、さすがに思いもよらなかった。それと向いあっているのが主人の藤左衛門で、服装《みなり》は質素であるが如何にも大家のあるじらしい上品な人柄で、これも打ち沈んでうつむいていたが、半七らをみて鄭重《ていちょう》に挨拶した。その挨拶が済むと、半七は先ず大五郎に声をかけた。
「一体、親方はどうしてここへ来なすった。わたし達も鼻を明かされてしまいましたよ」
「どう致しまして……」と、大五郎は小声で答えた。「けさ暗いうちに、こちらから迎いの駕籠がまいりましたので、何がなにやら判らずに参ったのでございます」
それにしても、線香の匂いがどこからか流れて来るのが半七の気になった。
「なんだか忌《いや》な匂いがしますね」
「それでございます。神田の親分さん、どうぞこれを御覧くださいまし」
藤左衛門が起って次の間の襖をあけると、そこには血みどろになった若い男と女の死骸がならべて横たえてあった。
「御免ください」
半七も起って行って、まずふたりの死骸をあらためた。男は左の頸筋から喉《のど》へかけて斜めに斬られていた。女も左の喉を突き破られていた。その枕もとには血に染みた一挺の剃刀《かみそり》が置かれてあった。
これで一切は解決した。
半七が想象していた通り、勝次郎の申し立てにはよほどの嘘がまじっていた。かれはこの夏、親方と一緒にこの家の仕事に通って来て、母屋《おもや》と台所の繕《つくろ》いをしていた。繕い普請といっても大家の仕事であるから、二十日あまりも毎日通いつづけているあいだに、彼は家の女中たちとも心安くなった。若い職人は若い女中と冗談などを云いあうほどに打ちとけた時、ある日の午《ひる》休みにお兼という女中が勝次郎を物かげによんで何事をかささやいた。勝次郎はいつの間にか家の娘のお早に見染められたのである。お早は顔や手足に青い痣があるので、今に縁談がきまらないでいる。それを承知で逢ってくれれば、娘から十両の金をくれるというのであった。年のわかい無分別と、もう一つには慾にころんで、勝次郎はとうとうそれを承知した。かれはお兼の手びきで、はじめてお早という娘に逢った。それは古い土蔵の奥で、昼でも薄暗いところであった。
そのうちに仕事が済んで、勝次郎はもう雑司ヶ谷へ通わなくなると、お早の方から追って来た。しかし長屋住居の男の家へ入り込むことを嫌って、いつもかの清水山で逢うことにしていた。それを父の藤左衛門に覚られて、きびしく意見を加えられたが、恋に狂っているお早はどうしても肯《き》かなかった。普通の娘の我がままや放埓《ほうらつ》とは訳が違うので、父には一種の不憫が出て、結局はそのなすがままにまかせていたが、娘ひとりを出してやることは何分不安であるので、児飼いからの奉公人ふたりを毎晩見えがくれに付けてやって、よそながらお早の身の上を警固させていた。喜平らをなぐり倒してその探検を妨げたのは、勿論かれらの仕業であった。
しかしこういう探検者があらわれて来るからには、迂濶に清水山へ通うのは危険であると、かれらは主人に注意した。お早にも注意した。それで一旦はその通い路を断《た》ったのであるが、お早の執着は容易に断ち切れなかった。かれは男恋しさに物狂おしくなって、あるときは庭の池へ身を沈めようとした。あるときは剃刀で喉を突こうとした。これには父も持て余したばかりか、片輪の子ほど可愛さも不憫さも弥増《いやま》して、かの奉公人ふたりと相談の上で、娘の恋しがる男を引っかついで来ることにした。土地の者からは仏さまのように敬われている藤左衛門も、わが子の愛には眼がくらんで悪魔の奴《やっこ》となり果てたらしい。忠義の奉公人どもは主人の心を汲み、娘の恋にも同情して、勝次郎が夜ふけて師匠の家から帰る途中を不意に取っておさえて猿轡《さるぐつわ》をはませ、用意して来た駕籠にぶち込んで、とどこおりなく雑司ヶ谷まで生け捕りにして来たのであった。半分は夢中でぼんやりしている勝次郎は、お早の居間と定められているこの離れ家へかつぎ込まれて、薄暗い行灯の下で青い痣にいろどられている女と差し向いになった。
それから後は、どうしたのか誰も知っている者はない。それでも虫が知らしたとでもいうのか、藤左衛門はなんだか一種の不安をいだいて、夜のあけないうちにそっとその様子をうかがいにゆくと、かれの眼に映ったのは生々《なまなま》しい血潮と若い二人の亡骸《なきがら》とであった。
ふたりはどうして死んだのか
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