。
「親分さん。大工の勝次郎がゆうべから帰らないそうです」
「勝次郎が……。ゆうべから……」
「そうです。ゆうべも町内の師匠のところへ行って、四ツ(午後十時)頃まで呶鳴って帰ったそうですが、けさになっても家へ帰らないんです。どこへか泊まりに行ったのかと思うんですが、長屋の人たちの話では、この頃めったに家《うち》をあけたことはないそうです」と、喜平は仔細らしくささやいた。
「それでも若い者のことだ。どこへ転げ込まねえとも限らねえ。まだ夜が明けたばかりだ。今にどこからか出て来るだろう」
「でも、親分。師匠のうちから半町ばかり離れたところに、勝次郎の煙草入れと草履が片足落ちていたそうです」
「そうか」と、半七は眉をよせた。「そいつは打っちゃっては置かれねえ」
半七はとりあえず竜閑町の裏長屋へ行って、家主立ち会いで勝次郎の家を調べると、表の錠はおろしたままであった。その錠をこじあけてはいってみると、狭い家のなかは別に取り散らした様子もみえなかった。夜逃げをするならば何か持ち出しそうなものである。どこへか泊まりに行ったならば、往来に煙草入れや草履かた足を落してゆくのもおかしい。更に清元の師匠の家へ行ってきくと、勝次郎はゆうべ酔っていなかったということが判った。こうなると不審は重々である。半七は更に勝次郎の親方の大五郎という棟梁をたずねた。大五郎の家は山卯の店から遠くないところで、格子のまえには若い職人二人と小僧一人が突っ立って、事ありげに何かひそひそと話していた。
大五郎はもう五十近い男で、半七を奥へ通して丁寧に挨拶した。
「おたずねの勝次郎のことに付きましては、わたくしも心配して、これから若い者どもを手分けして、心あたりを探させようと思っているところでございます。前夜の様子から考えると、なにか人と喧嘩でもしたのか。男のことですから、まさかに拐引《かどわかし》に逢ったわけでもないだろうと思うんですが……。職人にしてはふだんからおとなしい奴ですから、人から恨みを受けるようなこともない筈ですし、どうもわかりません」
「きのう当人から聴いたのじゃあ、この六月から七月にかけて、日本橋に二軒、神田に一軒、深川に一軒、雑司ヶ谷に一軒、仕事に行ったそうですが、そのなかで顔に痣《あざ》のある娘か女中のいる家《うち》はありませんでしたかえ」
「さあ」と、大五郎は首をひねった。「みんなわたくしの出入り場ですが、どうもそんな女のいる家はなかったようですね。尤《もっと》も、雑司ヶ谷だけは今度はじめて仕事に行ったんですが、顔に痣のある女……。そんな女は一度も見なかったと思います。それでも、まあ念のために若い者にきいてみましょう」
かれは門口《かどぐち》にあつまっている職人や小僧を呼んで、痣の女を詮議したが、だれもそんな女を知らないと云うので、半七は少し失望した。それでも雑司ヶ谷の仕事先について、棟梁や職人たちの知っているだけのことを残らず聞き取って帰った。帰る途中で、半七はきのうから今日にかけて探りあつめた種々の材料を、胸のなかでいろいろに組みあわせて考えた。そうして、それがどうにか順序よく組み立てられたように思われたので、かれの胸もだんだんに軽くなった。袋の物をつかむというまでには行かないでも、かれは爪先にころがっている物を見つけたぐらいの心持になった。
七
半七は家へ帰っていると、正午すぎになって子分の多吉が先ず帰って来た。かれは善八と手わけをして、ゆうべから日本橋二軒と深川一軒とを調べあげて来たのである。しかしその報告には半七の注意をひくほどの材料はなかった。
「いよいよ雑司ヶ谷だな」
こう思って待ちかまえていると、日の暮れる頃に善八が大いそぎで引き揚げて来た。かれは神田から雑司ヶ谷へまわったのである。神田の方は訳もなく埒があいたが、雑司ヶ谷の方は足場が悪いのと、少し面倒であったのとで、思いのほかに暇どれたと彼は云い訳らしく云った。
「そうだろうと思っていた」と、半七は待ち兼ねたように訊いた。「そこで早速だが、神田の方はあと廻しとして、まずその雑司ヶ谷の方から聞かしてくれ。その家《うち》は穀屋《こくや》で、桝屋とか云ったな」
「家号は桝屋ですが、苗字は庄司というんだそうで、土地の者はみんな庄司と云っています。土地では旧家だそうで、店の商売は穀屋ですが、田地《でんじ》をたくさん持っている大百姓で、店の右の方には大きい門があって、家の構えもなかなか手広いようです。店の方と畑の方とを合わせると、奉公人が四五十人も居るということです」
「奉公人のほかに家内は幾人いる」
「大家内の割合いに、家の者は極く少ないんです」と、善八は答えた。「主人は藤左衛門といって、もう六十ぐらいになる。女房は十年ほど前に死ぬ。子供は男二人と女ふたりで、惣領は奥州の
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