山ではないが、前にも云ったような事情で久しく鎌を入れたことがないので、ここには灌木や秋草が一面に生い茂って、闇の底から白い薄《すすき》の穂が浮き出したように揺らめいているのも、場所が場所だけになんとなく薄気味悪くも思われた。二人は着物の裾をからげて、用意の武器をとり出して、息を殺してその薄のなかを掻きわけて行くと、その響きにおどろかされたのか、忽ちがさがさという音がして、一匹の獣《けもの》のようなものが草の奥から飛び出して来たので、喜平も茂八もぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として立ちすくんだ。

     三

「おい、何か出たぜ」
 ふたりは小声でたがいに注意した。
 なにぶんにも草が深いので、今だしぬけにあらわれて来た獣《けもの》の正体を、星明かりぐらいではとてもはっきりと見定めることは出来なかったが、それは何だか狐の大きいようなものであるらしかった。その動作は非常に活溌で、ふたりに向ってまっしぐらに飛びかかって来たので、喜平も茂八も狼狽した。
 ふたりは手に武器を持っていたが、鑿や小刀のような小さい刃物では、足もとへ低く飛び込んで来る敵を撃ちはらうには甚だ不便であった。殊に相手の正体がわからないので、ふたりは一種の恐怖に襲われて、茂八はふだんの力自慢にも似あわずに、まず引っ返して逃げ出した。その臆病風に誘われて、喜平もつづいて逃げた。堤をころげ降りて往来へ出ると、敵はそこまでは追って来ないらしいので、ふたりは立ちどまって顔をみあわせた。
「狐だろうか」と、茂八はあとを見かえりながら一と息ついた。
「狐にしちゃあ大き過ぎるようだ」と、喜平は首をひねった。
「それじゃあ鼬《いたち》かしら」
「それとも河岸の方から河獺《かわうそ》でもまぎれ込んで来たんじゃないかな」
 狐か鼬か河獺か。ふたりは往来に立ってその評定《ひょうじょう》にしばらく時を移したが、なにぶんにも暗い中の出来事で相手のすがたを見とどけていないのであるから、いつまで論じあっていても決着のつく筈がなかった。喜平はもう一度引っ返して、その正体を見とどけようかとも云ったが、茂八は少し躊躇した。それが果たして狐か鼬ならば、さのみ恐れるほどのこともないが、万一それが清水山に年ひさしく住む一種の怪獣であるとすると、迂濶に立ち向ってどんなおそろしい禍いを受けるようなことがないとも限らない。なにしろ今夜のような暗やみではどうすることも出来ないから、明るい時にまた出直して来ようというのである。そう云われると、喜平も勇気をくじかれて、とうとう今夜も空しく引き揚げることになった。
 銀蔵といい、茂八といい、味方は揃いも揃って口ほどにもない弱虫であるのが、喜平には腹立たしく思われてならなかった。さりとて自分ひとりで実行するほどの勇気もないので、更に頼もしい味方を新らしく見つけ出そうと考えているうちに、かの茂八が尾鰭《おひれ》をそえて大袈裟に吹聴《ふいちょう》したとみえて、柳原の清水山には怪獣が棲んでいるという噂がたちまち近所にひろまった。銀蔵も何かしゃべったらしい。仕事場で喜平の話をきいた大工や軽子どもも世間に吹聴したらしい。それやこれやが八方に伝わって、初めの夜には喜平と銀蔵が大入道に襟首をつかんで投げ出され、その後の夜には喜平と銀蔵が九尾《きゅうび》の狐に食われかかったなどと、途方もないことを見て来たように云い触らす者も出来た。
 それが主人の耳にはいって、茂八は和泉屋の主人から叱られた。とりわけて喜平はその発頭人《ほっとうにん》であるというので、山卯の主人や番頭からきびしく叱られた。何かのことにかかりあって、詰まらない噂を立てられるのを、その時代の人はひどく嫌っていたので、喜平は銭湯《せんとう》へゆくほかには、日が暮れてから外出することを当分さし止められてしまった。かれらに代って、大入道や九尾の狐の正体を見とどけに出かけてゆく勇士もあらわれなかった。
 問題の白い浴衣も寒空にむかっては姿をあらわさないとみえて、その方の噂はだんだんに消えて行ったが、喜平らによって新らしく生み出された大入道と九尾の狐の噂は容易に消滅しないばかりか、それを瓦版にして売りあるく者さえ出来たので、八丁堀同心らももう棄てておかれなくなった。前にも云ったようなわけで、町奉行所では大入道や九尾の狐を問題にはしなかったが、八丁堀の人々はともかくも一応は念のために、その噂の実否を取り調べておく必要をみとめた。場所が神田にあるので、三河町の半七が八丁堀の猪上《いがみ》金太夫の屋敷へ呼ばれた。
「半七。お前の縄張り内に大入道と九尾の狐が巣をつくっているそうだ。どうも大変なことだな」と、金太夫は笑った。「あんまりばかばかしいと思うものの、世間を騒がせることはよくねえことだ。わざわざおまえが汗をかくほどの仕事でもあるめえが、
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