出来ました」
 武士の顔色は俄かに陰った。
「あ、それは残念。して、その買い手は何処のなんという人だ」
 孫十郎から詳しい話をきかされて、若い武士はいよいよ顔色を暗くした。かれはひどく困ったようにしばらく考えていたが、やがて小声で云い出した。
「近ごろ無理な相談ではあるが、どうであろう、その買い手の方をなんとか破談にしてくれるわけには行くまいか」
「そうでございますな」と、孫十郎も当惑の額《ひたい》をなでた。「なにぶんにも、もう手金《てきん》まで頂戴して居りますので……」
「それは判っている。当方の無理も万々承知しているが、そこをなんとか取り計らってはくれまいか」
 いくら相手が侍でも、無理はどこまでも無理に相違ないので、孫十郎も容易に承知しかねて、いつまでも渋っていると、武士は更に声をひそめて云い出した。自分がこういう無理を頼むのは、まことによんどころない事情がある。屋敷の名は明らかに云うわけには行かないが、自分は西国《さいこく》の或る藩中に勤めている者で、あの生成の仮面は主人の屋敷で当夏|虫干《むしぼし》のみぎりに紛失したものである。それを表向きに詮議する事の出来ないというのは、その仮面は屋敷の御先祖が権現様から直々《じきじき》に拝領の品で、それを迂濶に紛失させたなどとあっては、公儀へのきこえも宜しくない。そういうわけで、屋敷の方でも他聞を憚《はばか》って、飽くまでも秘密に穿鑿《せんさく》しているのである。それを自分がきのう測《はか》らずもここの店で見つけた。見つけてすぐに掛け合えばよかったのであるが、ほかに用向きをかかえていたので、そのままに見過ごしてしまった。それが自分の重々不覚で、今さら後悔のほかはない。ゆうべは遅く帰ったので、けさ改めて重役方にそのことを申し立てると、自分はひどく叱られた。
 大切な御品を発見した以上、何事を差しおいても其れを取り戻す工夫をしなければならないのに、うかうか見過ごしてしまうとは余りの手ぬかりである。寸善尺魔《すんぜんしゃくま》の譬《たと》えで、万一きのうのうちに他人の手に渡ってしまったらどうするか。持ち合わせの金がなければ、相当の手付けを置いてくるか、万やむを得なければ屋敷の名をあかしても店の者に持たせてくるか、なんとか臨機の処置を取るべき筈であるのに、そのままに見過ごすとは何事であるかと、自分は重役方からさんざんに叱られた。そう云われると、まったく一言もない。それでもきのうのきょうである。殊に余の品とも違って、めったに売れそうもないものであるから、おそらく無事であることと多寡をくくって、唯今かさねて来てみると、間《ま》の悪いときは悪いもので、その仮面はひと足ちがいで他人《ひと》に買われてしまった。さてこうなると、どうしていいか判らない。今さら歯咬みをしても、地団太《じだんだ》をふんでも、取り返しの付かないことになった。
「手前が重々の不調法《ぶちょうほう》、その申し訳には腹を切るよりほかはござらぬ」と、武士は蒼ざめたひたいに太い皺を織り込ませて、唸るように溜息をついた。
 孫十郎もいよいよ当惑した。理窟をいえば、勿論この若侍の不念《ぶねん》に相違ない。重役たちの云う通り、それほど大切な詮議の宝を見つけたならば、なにを措《お》いても買い戻しの手だてをめぐらすべきであった。それを怠って、今さら悔むのは不覚である。しかしその不覚は不覚として、この侍の身になってかんがえると、まったく途方にくれることであろう。申し訳の切腹もあるいは是非ないかも知れない。まさかにこの店さきを借用するとも云うまいが、老い先のながい侍ひとりが、腹を切るというのを唯眺めているわけにも行かない、どうも困ったことが起ったと思うと同時に、一種の商売気が彼の胸にうかんだ。
「そういう仔細をうかがいますると、まことにお気の毒に存じられますが、くどくも申す通り、もはや先約がござりますので……。手金まで頂戴いたして置きながら、今さら破談と申すのは商売冥利、はなはだ難儀でござりますが、ともかくも明日|先様《さきさま》がおいでになりましたら、一応は御相談いたしてみましょうか」
「そうしてくれれば何よりだが……」と、武士は縋《すが》るように云った。「手金を戻しただけで、先方が素直に納得してくれればよし、万一不得心のようであったならば、手金の二倍増し、三倍増しでも……。掛け合いの模様によっては、十倍増しでも苦しくない。なんとか纏まるように相談してくれ。唯今も申す通りの仔細であれば、当方では金銭に糸目はつけぬ。なるべくは屋敷の名を出したくないと存ずるが、どうでも貴公の手にあまって、手前の直談《じきだん》でなければ埒《らち》があかぬようならば、手前がその人に会ってもよい。いずれにしても、なにぶん一つ働いて貰いたい」
「かしこまりました。せいぜ
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