い働いてみましょう」
武士はすこし顔の色を直して、ふところから五十両の金を出した。
「ともかくもこれだけ預けて置いて、あとは明日持参いたすが、あの仮面は手前の方へ譲ってくれるな」
「足もとを見てお高いことを申し上げるわけにもまいりませぬ。けさほどのお客様には百五十両にねがいましたのでございますから、やはりそのお値段でお願い申しとう存じます」
「承知いたした。では、くれぐれも頼む」
かたく約束して、武士は帰った。伊藤の店には二人の手代がいるが、どちらも得意先へ出廻った留守であったので、この掛け合いは主人ひとりの胸に納めて、誰にもそれを洩らさなかった。
日の暮れる頃に、けさの客がまた出直して来た。
「あしたという約束であったが、金春新道《こんぱるじんみち》の方まで来る用が出来たので、足ついでに廻って来た。残金二十二両、あらためて受け取ってくれ」
と、かれは孫十郎の前に金をならべた。
「就きましては、少々御相談いたしたいことが出来たのでございますが、店さきでお話もなりませぬ。お手間は取らせませんから、ちょっと二階までお通りをねがいます」
不思議そうな顔をしている客を、無理に二階へひきあげて、もう時分どきであるというので、孫十郎は近所の料理屋から酒肴を取り寄せてすすめた。そうして、かの仮面の一条をうちあけると、客はなかなか承知しなかった。これが唯の道楽であるならば、他にゆずり渡しても仔細ないが、自分は金春のお能役者で、芸道の上からかの仮面を手に入れたいと思うのであるから、折角ではあるが今さら手放すことは出来ないと云い切った。
それにも一応の理窟はあるので、孫十郎も当惑した。いろいろに押し返して口説《くど》いてみたが、客はかれの云うことを十分に信用しないらしく、屋敷の宝が紛失したの、侍が腹を切るのというのは、体《てい》のいいこしらえ事で、ほかに良い客をみつけた為に、そんな口実を作って自分の方を破談にする積りであろうと疑っているらしくみえた。彼はその武家に一度逢わせてくれとも云った。
逢わせてもいいのであるが、一方へ二十五両で売る筈であった仮面を、今度は百五十両に売り込もうとするのであるから、前後の買い手に対談させて、万一その秘密が発覚しては妙でないと思うので、孫十郎はなるべく両方を突きあわせたくなかった。かれは強《し》いてその客に酒をすすめて、だんだんに酔いのま
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