に引き寄せられて来る者はなかった。十日をすぎ、半月を過ぎて、孫十郎はまた罵った。
「畜生……。一杯食わせやがった」
 前の能役者と武士とは同類で、あらかじめ申し合わせてこの狂言をかいたのであろう。なまじいに商売気を出したのと、かの武士の愁嘆に同情したのとで、自分は二十五両という金をやみやみ騙《かた》り取られたのである。こう気がつくと、孫十郎は白髪《しらが》が一本ずつ逆立つように口惜しがって憤ったが、今更どうすることもできなかった。殊にこの事件は最初から自分ひとりで応待したのであるから、誰を責めるわけにも行かなかった。
 商売のわずらいと一旦はあきらめても、彼はやはり諦め切れなかった。かれはその後幾日か考えつめた末に、神田の半七のところへ駈け込んだ。

「なに、その罪人はすぐに知れましたよ」と、半七老人は云った。「しかし少々勘違いであったのは、前の能役者と後の若侍と、なんにも係り合いのないことでした。誰が考えてもこのふたりは狎《な》れ合いだと思われましょう。現に伊藤の亭主も一途《いちず》にそう思い込んでいましたし、わたくしも先ずそうだろうと鑑定していました。ところが大違いだからおかしい。能役者の方は金春《こんぱる》の弟の繁二郎という男で始末におえない道楽者ではあるが、商売柄だけにさすがに眼がきいているので、上作の仮面を見つけ出して、ある大名屋敷へ売り込んで大金儲けをしようと思った。ところがその目算《もくさん》がはずれて売り主の方から破談を云い出された。その事情を聴いてみると、どうしても忌だとも云えない。さりとて、折角の金儲けを水にしてしまうのも口惜しい。そこで伊藤の亭主の足もとへ付け込んで、百両よこせなどと大きく吹っかけて、とうとう七十五両をまきあげて行ったというわけで、別にゆすりとか騙《かた》りとかいう悪名《あくみょう》をきせることも出来ないのです。それから一方の侍は何者かというと、これも偽名ではなく、まったく西国の藩中の根井浅五郎という人で、正直に仮面をさがしに来たのです。しかし前にも云った通り、年のわかい手ぬかりから重役達に先ず叱られ、それからすぐに出てくると、仮面はもう人手に渡っているという始末。ともかくも一方の破談をたのんで置いて、屋敷へ帰って報告をすると、それだから云わぬことか、お手前重々の不念《ぶねん》であるといって、重役たちから又もや手ひどく叱られたの
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