あると云った。いよいよ押借りであると見きわめた番頭は、彼等が何を取り出すかと見ていると、その風呂敷からは血に染《し》みた油紙が現われた。更に油紙を取りのけると、その中から一つの生首《なまくび》が出たので、番頭もぎょっとした。ほかの者共はもう息も出なかった。
 それが彼等をおどろかしたのは、単に人間の首であるというばかりではなかった。それは日本人の首とはみえなかった。髪の毛の紅い、鬚《ひげ》のあかい、異国人の首であるらしいことを知った時に、かれらは一倍に強くおびやかされたのであった。侍どもはその生首を番頭のまえに突きつけて、これを見せたらば諄《くど》く説明するにも及ぶまい、われわれは攘夷の旗揚げをするもので、その血祭《ちまつ》りに今夜この異人の首を刎《は》ねたのである。迷惑でもあろうが、これを形代《かたしろ》として軍用金を調達してくれと云った。相手が普通の押借りであるならば、一人|頭《あたま》五両ずつも呉れてやって、体《てい》よく追い返す目算であった番頭も、人間の首、殊に異人の首を眼のさきへ突きつけられて、俄かに料簡を変えなければならなくなった。
 攘夷の軍用金を口実にして、物持ちの町家をあらし廻るのは此の頃の流行で、麻疹《はしか》と浪士は江戸の禁物《きんもつ》であった。勿論、そのなかにはほんとうの浪士もあったであろうが、その大多数は偽《にせ》浪人の偽攘夷家で、質《たち》のわるい安御家人の次三男や、町人職人のならず者どもが、俄か作りの攘夷家に化けて、江戸市中を嚇《おど》しあるくのであった。おなじ押借りのたぐいでも、攘夷のためとか御国の為とか云えば、これに勿体《もったい》らしい口実が出来るので、小利口な五右衛門も定九郎もみんな攘夷家に早変りしてしまった。しかし相手の方もだんだんその事情を知って来たので、この頃では以前のように此の攘夷家をあまり恐れないようになった。いわゆる攘夷家も蝙蝠安《こうもりやす》や与三郎と同格に認められるようになって来た。丸井の番頭長左衛門が割合いにおちつき払っていたのも、やはり彼等を見縊《みくび》っていたからであった。
 しかしそれが勘ちがいであったことを、番頭も初めて発見した。かれらはいわゆる攘夷家の群れではなくて、ほんとうの攘夷家であるらしかった。彼等は口のさきで紋切り型の台詞《せりふ》をならべるのでは無くて、生きた証拠をたずさえて飛び込んで来たのであった。その血祭りという異人の首は、鮮血に染《し》みたままで油紙のうえに据えられているのであった。度胸のいいのを自慢にしていた長左衛門も、だんだんに顔の色をかえて、何者にか押し付けられるように、その頭をおのずと下げた。もうこうなっては七分の弱味である。そのあいだ二、三度の押し問答はあったものの、所詮《しょせん》かれは攘夷家の請求する三百両の半額を謹んで差し出すのほかはなかった。侍共は渋々納得して帰った。帰るときに、形代であるから此の首を置いてゆくと云ったが、番頭は平《ひら》にあやまって頼んで、この恐ろしい質物《しちもつ》を持って帰ることにして貰った。
 この報告をうけ取って、半七は溜息をついた。
「ふうむ。そりゃあ初耳だ。おれはちっとも知らなかった。だが、丸井ではなぜそれを黙っているのかな。そういうことがあったら、この時節柄、きっと届け出ろということになっているんだが……。わからねえ奴らだな」
「それがね、兄さん」と、お粂は更に説明を加えた。「その浪人たちが引き揚げるときに、おれ達の企ては中途で洩れては一大事だから、今夜のことは決して他言するな。万一これを洩らしたら同志の者どもが押し寄せて来て、主人をはじめ一家内をみなごろしにするから然《そ》う思えと、さんざん嚇かして行ったんですとさ。それだから丸井の家《うち》では店じゅうのものに口止めをして、誰にも話さないことにしていたんですよ」
「それをおまえが又どうして知った」
「そりゃあ神田の半七の血を分けた妹ですもの」
「ふざけるな。まじめに云え。御用のことだ」
 丸井の秘密をお粂が知っているにはこういうわけがあった。丸井の店の初蔵という若い者がお粂のところへ時々に遊びにくるので、お粂は飛鳥山の花見に加入のことを頼むと、初蔵は一旦承知して帰ったが、きょうの午過ぎになって急に断わりに来た。かれは師匠に怨まれるのを恐れて、ゆうべの出来事をいっさい打ちあけた。何分にもこの矢先きでは店を出にくいから、かならず悪く思ってくれるなと、彼はしきりに云い訳をして帰った。単に違約の云い訳のためならば、まさかそんな大袈裟《おおげさ》な嘘はつくまい。これはきっとほんとうのことに相違ないとお粂は云った。半七もそう思った。
 しかしこのことが自分の口から洩れたと知れては、自分も迷惑、初蔵も迷惑するであろうから、兄さんに如才《じょさい》もある
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