せん。よそから貰いましたのでございます」
「どこで貰った。正直に云え」と、吟味方の与力はかさねて訊《き》いた。
「芝、露月町《ろうげつちょう》の山城屋から貰いました」
山城屋というのは其処でも有名の刀屋である。先月の末に、五兵衛がいつもの通り商売に出て、山城屋の裏口へゆくと、かねて顔を識《し》っている女中が紙屑を売ってくれた末に、おまえの家の子供にこれを持って行ってやらないかと云って、かの蛙の水出しをくれた。五兵衛はよろこんで貰って帰って、それを自分の子供の玩具にさせると、二日ばかりで其の子は急病で死んだ。それが更に大工の子供の手に渡って、その子はその日におなじく急病で死んだのであった。
それらの事情が判明して、引合いの者一同はひと先ず自宅へ戻された。しかし水出しのことは決して口外してはならぬと堅く申し渡された。その後|十日《とおか》ばかりは何事もなかったが、盂蘭盆《うらぼん》が過ぎると、山城屋の女房お菊と、女中のお咲が奉行所へ呼び出された。この二人は再び帰宅を許されないので、世間ではいろいろの噂をしていると、九月の中頃にその裁判が落着《らくぢゃく》して、女中のお咲は遠島、女房のお菊は死罪という恐ろしい申し渡しを受けたので、当の山城屋は勿論、世間ではびっくりした。
したがって、それに就いていろいろの風説が伝えられたが、その真相はこうであった。お菊は後妻で、ことし八つになる惣領息子をふだんから邪魔物にしていた。世間によくある習いで、彼女はおそろしい継母《ままはは》根性からその惣領息子を亡きものにしようとたくらんで、子供の玩具として蛙の水出しを買って来た。水出しの一端を水の中へ※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28] し込んで置いても、なかなか自然に水をふき出すものではない。俗に吸い出しをかけると云って、最初に一方の蛙の口へ人間の口をあてて水を吸い出してやらなければならない。一度そうすると、それからは自然に水を噴き出すようになる。それであるから、この水出しをもてあそぶものは必ず一度は自分の口で蛙の口を吸わなければならない。水の出ようの悪いときには、二度も三度も蛙の口を吸うことがある。これまで説明すれば、もう委《くわ》しく云う必要はあるまい。お菊は陶器の蛙に一種の毒薬を塗りつけて置いたのであった。
しかし彼女はそれを継子《ままこ》に与えようとしてさすがに躊躇《ちゅうちょ》した。彼女はその陰謀のおそろしいのにおびやかされて、結局それを中止することにしたが、さてその水出しの処分に困って、女中のお咲に命じて芝浦の海へそっと捨てて来いと云った。勿論、お咲がそのまま海へ投げ込んでしまえば何事もなかったのであるが、その秘密を知らない彼女はわざわざ捨てにゆくのも面倒だと思って、それを恰《あたか》も来あわせた紙屑屋の五兵衛にやったので、その蛙の口を吸った五兵衛の子供が先ず死んだ。つづいて由五郎の子供が死んだ。一つの水出しが二人の子供を殺すような惨事が出来《しゅったい》した。
たとい半途で中止したとしても、継子を毒殺しようと企てただけでもお菊は何等かの罪を受けなければならなかった。殊にそれがために、紙屑屋の子を殺し、大工の子を殺し、あわせてその母を殺すような事件を仕出来《しでか》したのであるから、その時代の法として普通の死罪はむしろ軽いくらいであった。お咲はなんにも知らないとはいえ、主命にそむいて其の水出しを他人《ひと》にやった為に、こういう結果を生み出したのであるから、これも重い刑罪を免かれることは出来なかった。
奉行所の記録に残っているのは、ただこれだけの事実であって、お菊がどこからこんな恐ろしい毒薬を手に入れたかをしるしていない。お菊がそれを白状したらば、その毒薬をあたえた者は当然処刑を受くべき筈であるが、申渡書には単にお菊とお咲をしるしてあるばかりで、ほかの関係者のことはなんにも見えない。したがって、単に毒薬というばかりで、その薬の種類などは今から想像することは出来ない。
「いや、実はその毒薬をやった医者も判っているんですがね」と、半七老人はここで註を入れた。
「そいつはなかなか素捷《すばや》い奴で、山城屋の女房と女中が奉行所へ呼ばれたと聞くと、すぐに夜逃げをして、どこへ行ったか判らなくなったんです。そのうち例の瓦解《がかい》で、江戸も東京となってしまいましたから、詮議もそれぎりで消えました。運のいい奴ですね」
「そうすると、その水出しのことはあなたの種出しなんですね」
「お通夜の晩に、紙屑屋の女房がふと水出しのことをしゃべったのが手がかりで、こんな大事件をほじくり出してしまいました。いつかあなたに『筆屋の娘』のお話をしたことがありましょう。あれはこの翌月のことで、世間に似たようなことは幾らもあるもんです」
底本:「時代推理小説 半七捕物帳(三)」光文社文庫、光文社
1986(昭和61)年5月20日初版1刷発行
1997(平成9)年5月15日11刷発行
入力:網迫
校正:藤田禎宏
2000年9月7日公開
2008年10月5日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング