いよいよ赫《かっ》と逆上したらしい。彼女は蒼ざめた顔にふりかかる散らし髪をかきあげながら、亭主の前へ手をついた。
「まことに申し訳ありません。きっとお詫びをいたします」
 切り口上にこう云ったかと思うと、かれは跣足《はだし》で表へとび出した。その血相《けっそう》が唯ならないと見て、居あわせた人達もあとから追って出たが、もう遅かった。大通りの向うは高輪《たかなわ》の海である。あれあれといううちに、女房のうしろ姿は岸から消えてしまった。
 由五郎は今さら自分の気早を悔んだが、これも遅かった。やがて引き揚げられた女房の死体は、わが子の死体と枕をならべて、狭い六畳に横たえられた。妻と子を一度にうしなった由五郎は、自分も魂のない人のように唯黙って坐っていた。相長屋の八、九人があつまって来て、残暑のまだ強い七月の夜に二つの新らしい仏を守っていた。
 その通夜《つや》の席で、一軒置いた隣りの紙屑屋の女房がこんなことを云い出した。この女房は四、五日まえに七つになる男の児を亡《うしな》ったのであった。
「ほんとうに判らないもんだわねえ。うちの子供が歿《なくな》りました時には、ここのおかみさんが来て、いろいろお世話をして下すったのに、そのおかみさんが幾日も経たないうちにこんなことになってしまって……。おまけに由ちゃんまで……。まあ、なんということでしょう。家《うち》の子供も由ちゃんと丁度おなじように、だしぬけに顔の色が変って、それから一※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《いっとき》の間も無しに死んでしまったんですが、お医者にもやっぱりその病気がたしかに判らないということでした。この頃は子供にこんな悪い病気が流行《はや》るんでしょうか。まったく忌《いや》ですね。いや、それに就いて、わたしは何だか忌な心持のすることがあるんですよ。実はね、家の子供が玩具《おもちゃ》にしていた水出しをね、今考えると、ほんとうに止せばよかったんですけれど、ここの家の由ちゃんに上げたんですよ。死んだ子供の物なんかを上げるのは悪いと思ったんですけれど、ここの由ちゃんがけさ遊びに来て、おばさん、あの水出しをどうしたと云うから、家にありますよと云って出して見せると、わたしにくれないかと云って持って帰ったんです。そうすると、その由ちゃんが又こんなことになって……。死んだ子供の物なんか決して人にやるものじゃありませんね。わたしは何だか悪いことをしたような心持がして、気が咎めてならないんですよ」
 紙屑屋の女房はしきりに自分の不注意を悔んでいるらしかった。不運な母と子の死体はあくる日の夕方、品川の或る寺へ送られて無事に葬式《とむらい》をすませた。由五郎は自棄《やけ》酒を飲んでその後は仕事にも出なかった。

「この話がふとわたくしの耳にはいったもんですからね。いわゆる地獄耳で聞き逃がすわけには行きません」と、半七老人は云った。「その大工の子供や、紙屑屋の子供が、はやり病いで死んだのならば仕方がありません。門並《かどなみ》に葬礼が出ても不思議がないんですが、そこに少し気になることがあったもんですから、八丁堀の旦那方に申し上げて、手をつけてみることになりました」
「じゃあ、二人の子供はやっぱり何かの災難だったんですね」と、わたしは訊《き》いた。
「そうですよ。まったく可哀そうなことでした」

 それから四、五日の後に、由五郎は勿論、紙屑屋の亭主五兵衛とその女房お作とが家主附き添いで、月番の南町奉行所へ呼び出された。死んだ由松が紙屑屋の女房から貰って来たという玩具《おもちゃ》の水出しが、証拠品として彼等のまえに置かれた。今日《こんにち》ではめったに見られないが、その頃には子供が夏場の玩具として、水鉄砲や水出しが最も喜ばれたものであった。水出しは煙管《きせる》の羅宇《らお》のような竹を管《くだ》として、それを屈折させるために、二箇所又は三箇所に四角の木を取り付けてある。そうして一方の端を手桶とか手水鉢《ちょうずばち》とかいうものに※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28] し込んで置くと、水は管を伝って一方の末端から噴き出すのである。しかしただ噴き出すのでは面白くないので、そこには陶器《せと》の蛙が取り付けてあって、その蛙の口から水を噴くようになっている。巧みに出来ているのは、蛙の口から可なりに高く噴きあげるので、子供たちはみな喜んでこの水出しをもてあそんだのである。その水出しが奉行所の白洲《しらす》へ持ち出されて厳重な吟味の種になろうとは何人《なんぴと》も思い設けぬことであった。
 紙屑屋の夫婦は先ずその水出しの出所を糺《ただ》された。その玩具はどこで買ったかという訊問に対して、亭主の五兵衛は恐る恐る申し立てた。
「実はこの水出しは買いましたのではございま
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