の寄り合いをしたり、無尽をしたり、遊芸のお浚《さら》いをしたり、まあそんなことで相当に繁昌している家でした」
元治元年三月の末であった。その田原屋の二階で藤間光奴《ふじまみつやっこ》という踊りの師匠の大浚いが催された。光奴はもう四十くらいの師匠盛りで、ここらではなかなか顔が売れているので、いい弟子もたくさんに持っていた。ふだんの交際も広いので、義理で顔を出す人たちも多かった。おまけに師匠の運のいいことは、前日まで三日も四日も降りつづいたのに、当日は朝から拭《ぬぐ》ったような快晴になって、田原屋の庭に咲き残っている八重桜はうららかな暮春の日かげに白く光っていた。
浚いは朝の四ツ時(午前十時)から始まったが、自分にも弟子が多く、したがって番組が多いので、とても昼のうちには踊り尽くせまいと思われた。師匠も無論その覚悟でたくさんの蝋燭を用意させて置いた。踊り子の親兄弟や見物の人たちで広い二階は押し合うように埋められて、余った人間は縁側までこぼれ出していたが、楽屋の混雑は更におびただしいものであった。楽屋は下座敷の八畳と六畳をぶちぬいて、踊り子全体をともかくもそこへ割り込ませることにしたのであるが、何をいうにも子供が多いのに、又その世話をする女や子供が大勢詰めかけているので、ここは二階以上の混雑で殆ど足の踏み場もないくらいであった。そこへ衣裳や鬘《かつら》や小道具のたぐいを持ち込んで来るので、それを踏む、つまずく。泣く者がある。そのなかを駈け廻っていろいろの世話を焼く師匠は、気の毒なくらいに忙がしかった。午過ぎには師匠の声はもう嗄《か》れてしまった。
俄か天気の三月末の暖気は急にのぼって、若い踊り子たちの顔を美しく塗った白粉は、滲み出る汗のしずくで斑《まだ》らになった。その後見《こうけん》を勤める師匠の額にも玉の汗がころげていた。その混雑のうちに番数もだんだん進んで、夕の七ツ時(午後四時)を少し過ぎた頃に常磐津の「靭猿《うつぼざる》」の幕が明くことになった。踊り子はむろん猿曳と女大名と奴《やっこ》と猿との四人である。内弟子のおこよ[#「こよ」に傍点]と手伝いに来た女師匠とが手分けをして、早くから四人の顔を拵《こしら》えてやった。衣裳も着せてしまった。もう鬘さえかぶればよいということにして置いて、二人はほっ[#「ほっ」に傍点]と息をつく間もなく、いよいよこの幕が明くこと
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