、たった今そこで人殺しがあったという騒ぎであった。脛《すね》に疵もつ彼はなんだか急に怖くなって、とんだ連坐《まきぞえ》を食ってはならないと怱々《そうそう》に逃げて帰った。
「親分。まったくその通りで、嘘も詐《いつわ》りもございません。お察しください」
 かれの白状は嘘でもないらしかった。
「十露盤絞りをかぶっていたのは若い野郎だな。どんな装《なり》をしていた」
「双子《ふたこ》の半纏を着ていました」
 唯それだけのことでは、怪しい男の身もとを探り出すのはむずかしかった。双子の半纏をきて十露盤しぼりの手拭をかぶった男は、そのころ江戸じゅうに眼につく程にたくさんあった。半七はいろいろに定吉を詮議したが、どうしてもその以上の特徴を発見することは出来なかった。
 工夫《くふう》に詰まって、半七は更に紋七をよび出して調べた。紋作には叔母があるかと訊《き》くと、紋七は有ると答えた。ほかの者には隠していたが、兄弟子の自分には曾《かつ》て話したことがある。それは紋作が末の叔母で、十六の年から或る旗本の大家《たいけ》へ妾奉公に上がっていたが、今から七年ほど前にその主人が死んだので、根岸の下《しも》屋敷の方へ隠居することになった。本来ならば主人の死去と同時に永《なが》の暇《いとま》ともなるべき筈であるが、かれの腹から跡取りの若殿を生んでいるので、妾とはいえ当主の生母である以上、屋敷の方でも、かれを疎略に扱うことは出来なかった。かれは下屋敷に移されて何不足なく暮らしていた。
 物堅い武家に多年奉公していた叔母は、自分の甥に芸人のあることを秘《かく》していた。ことに自分の生みの子が当主となったので、猶更それを世間に知られることを憚《はばか》って、表向きは音信不通にすごしていたが、さすがは叔母甥の人情で、時々にそっと紋作をよび寄せて、幾らかの小遣いなどを恵んでくれた。紋作もいい叔母をもったのを喜んで、ときどきには自分の方からも押し付けの無心に行った。しかし叔母から堅く口止めをされているので、かれは叔母の身分も居どころも決して人には洩らさなかった。
 これで紋作と叔母との関係はわかったが、その下屋敷は根岸の方角とばかりで、屋敷の名は紋七も知らないと云った。その上には詮議のしようもないので、半七はひと先ず紋七を帰してやった。定吉も叱られただけで、主人の家へ帰された。
 紋作の葬式は、あくる朝の五ツ半(午前九時)に小間物屋の店を出た。ともかくも芸人であるだけに、相当の会葬者がその時刻の前から店先へあつまっていると、大きい霰《あられ》がその頭の上にはらはらと降った。半七も子分の庄太を連れて、その群れにまじっていた。
「ごめんなさい」
 霰のなかをくぐって一人の若い男が急いで来た。かれはお浜の母を呼び出して何かささやくと、お直は更に紋七を呼んで来た。男はやはり小声で紋七と何か応対して、袱紗《ふくさ》につつんだ目録《もくろく》包みらしいものを渡すと、紋七はしきりに辞儀をして、かれを奥へ連れて行った。
「親分」
 袂をひかれて半七はふり返ると、兎欠脣《みつくち》の定吉がうしろに立っていた。
「今来た男、あれがどうも十露盤絞りらしゅうござんすよ。顔にどこか見覚えがあります」
「そうか」
 半七はすぐに紋七をよび出して訊くと、いま来た男はかの根岸の叔母の使で、紋作の香奠《こうでん》として金五両をとどけて来たのだと云った。紋七が彼に逢うのはきょうが初めてであるが、これまでにも叔母の使で時々にここへ来たことがあるらしいとの事であった。
「あの男も見送りに行くのかえ」
「いや、ここで御焼香だけして帰ると云うていました」
 云ううちにかの男は出て来た。彼はあたりの人に気を置くようにきょろきょろと見廻しながら、紋七やお浜親子に挨拶して怱々《そうそう》に出て行った。半七はすぐに子分を呼んだ。
「やい、庄太。あの男のあとをつけろ」
 葬式の出る頃に霰はやんだ。紋作の寺は小梅の奥で、半七も会葬者と一緒にそこまで送ってゆくと、寺の門内には笠を深くした一人の若い侍が忍びやかにたたずんでいて、この葬列の到着するのを待ち受けているらしかった。

     四

 紋作の初七日の逮夜《たいや》が来た。今夜は小間物屋の二階で型ばかりの法事を営むことになって、兄弟子の紋七は昼間からその世話焼きに来ていた。涙のまだ乾かないお浜は、母と共に襷《たすき》がけで働いていると、その店さきへ半七がぶらりと来た。
「おれは御法事に呼ばれて来たわけじゃあねえが、これはまあ御仏前に供えてくれ」と、かれは菓子の折を出した。「そこで、今夜は紋七も来るんだろうね」
「はい。もうさっきから来ています」と、お浜は云った。
「そりゃあ都合がいい」
 案内されて二階へあがると、小さい机の上には位牌が飾られて、線香のうすい煙りのなか
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