鹿とがつるみ[#「つるみ」に傍点]合っていることを知らねえか」
相手も喧嘩腰であるので、紋作はいよいよ堪忍がならなかった。ふた言三言いい合って、かれは煙管をとって起ち上がろうとするのを、そばにいる者どもに押えられた。
「ほんまの三段目や」
ひとりが云ったので、みんなも笑った。定吉は兎欠脣を食いしめながら、紋作を憎さげに睨んで出て行った。
稽古の終った頃には冬の日はもう暮れ切っていた。紋七は冠蔵になんと話したか知らないが、稽古が済んでから紋作を誘って、三人づれで池の端の小料理屋へゆくことになった。紋七はここで二人を和解させようという下ごころであった。酒のあいだに彼はうまく二人を扱ったので、冠蔵もしまいには機嫌よく笑い出した。紋作も渋い顔をしてはいられなくなった。赤堀水右衛門と石井兵助とをめでたく和解させて、紋七も先ず安心した間もなく、なにかの話から糸を引いて、いつかの人形の噂がまた繰り出された。
「おい、紋作。あの人形はほんとうに斬り合ったのか」と、冠蔵は笑いながら訊《き》いた。
「嘘じゃあない。たしかに見た」
「じゃあ、まあ、ほんとうにして置くかな」と、冠蔵はまた笑った。
それが又、紋作には面白くなかった。今の冠蔵の口ぶりによると、かれは飽くまでも人形の不思議を信用しないのである。彼は飽くまでもこっちが故意に彼の人形を傷つけたように認めているらしい。紋作は嘲るように云った。
「ほんとうにして置くも置かないもない。おれが確かに見とどけたんだから」
「見とどけた。むむ、寝ぼけ眼《まなこ》でか」
「寝惚け眼でも猿まなこでも、おれが見たと云ったら確かに見たんだ。人形にたましいのはいるというのは無いことじゃない」と、紋作はいきまいた。
「そりゃあ人間が上手に使えばこそだ。なんの、木偶《でく》の坊がひとりで動くものか」
「ええ、そういう貴様こそ木偶の坊だ」
双方がだんだんに云い募ってくるので、紋七も持て余した。
「また三段目か、もうええ、もうええ、今更そんなことを云うてもあかんこっちゃ。木偶に魂があっても無《の》うてもかまわん。※[#歌記号、1−3−28]魂かえす反魂香《はんごんこう》、名画の力もあるならば……」
大きな声で唄いながら、彼はあはははははと高く笑い出した。喧嘩の出ばなを挫《くじ》かれて、二人もだまって苦笑《にがわら》いをした。それで人形問題は立ち消えになったが、席はおのずと白らけて来て、談話《はなし》も今までのように弾《はず》まなかった。紋七が折角の心づくしも仇《あだ》になって、三人はなんだか気まずいような顔をして別れることになった。
四ツ(午後十時)すこし前に紋作と冠蔵の二人はここを出た。ふたりともに可なりに酔っていた。紋七はあとに残って今夜の勘定をして、それから店の帳場へ寄って、稼業柄だけに愛嬌ばなしを二つ三つして、おかみさんや女中たちを笑わせているところへ、頬かむりをした一人の男が店口へつい[#「つい」に傍点]とはいって来た。
「紋作はこっちに来ていますかえ」
「たった今お帰りになりましたよ」と、女中のひとりが答えた。
それを十分聞かないで、男は消えるように出て行った。それから又すこししゃべって、店では提灯を貸してやろうと云うのを断わって、紋七もほろよい機嫌でここを出ると、上野の山に圧《お》し懸かっている暗い空には星一つみえなかった。不忍《しのばず》の大きな池は水あかりにぼんやりと薄く光って、弁天堂の微かな灯が見果てもない広い闇のなかに黄いろく浮かんでいた。寒そうな雁《かり》の声も何処かできこえた。
「えろう寒うなった」
酔いも急にさめたように、紋七は首をすくめながら池の端の闇をたどってゆくと、向うから足早に駈けて来て彼に突きあたった者があった。あぶなく倒れそうになったのを踏みこらえて、また二、三間歩いてゆくと、今度はかれの足がつまずいたものがあった。それがどうも人間らしいので、紋七も不思議に思って、五段目の勘平のような身ぶりで暗がりを探ってみると、かれの手に触れたのは確かに人間であった。しかもぬるぬるとした生《なま》あたたかい血のようなものを掴《つか》んだので、かれは思わずきゃっ[#「きゃっ」に傍点]と声をあげた。
三
紋七が発見したのは男二人の死体であった。ひとりは紋作で、左の脇腹を刃物でえぐられていた。他のひとりは冠蔵で、左の耳の下を斬られ、左の胸を突かれ、まだそのほかにも幾ヵ所の疵《きず》を負っていた。
式《かた》の通りに検視がすんで、死体はそれぞれに引き渡されたが、その下手人については二様の意見があらわれた。紋七や一座の者どもの申し立てによって考えると、和解の酒盛りが却《かえ》って喧嘩のまき直しになって、酔っている二人は帰り途で格闘を演じ、結局相討ちになったのであろうという
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