をおののかせた。「あいつはわたくしの仇《かたき》でございます」
「その仇のわけを聞こうじゃねえか。仇なら殺しても構わねえ。一体それは親の仇か、主人の仇か、おめえの仇か」
「主人のかたきで、わたくしにも仇でございます」
かれの眼からは止め度もなしに涙が流れ落ちた。お鉄はいよいよ興奮したように云った。
「もうどうしても勘弁がならなくなって、いっそ殺してしまおうと思いました。実はこのあいだの晩も剃刀を持って両国橋の上に待っていたのでございます」
「そうか」と、半七も溜息をついた。「まさかそんなこととは気がつかなかった。そこでその主人というのは加賀屋のことかえ。それともお前が付いて来た若いおかみさんのことかえ」
お鉄はまた黙ってしまった。くずれかかった銀杏返《いちょうがえ》しの鬢の毛をかすかにふるわせていた。
「それを話す約束じゃあねえか」と、半七はほほえみながら云った。「お前もまた、それを話す積りでわざわざ来たんだろうじゃあねえか。今さら唖《おし》になってしまわれちゃあ困る。え、その仇というのは若いおかみさんの仇かえ」
「左様でございます」と、お鉄は洟《はな》をつまらせながら答えた。「いろいろの無理を云って、わたくし共を窘《いじ》めるのでございます」
「なぜ窘める。こっちにも又、なにか彼奴に窘められるような弱身があるのかえ」
「はい」と、お鉄は両方の袂で顔を押さえながら、身をふるわせて泣き出した。
「なにか内証のことでも知っているのかえ」
加賀屋の娘は熊谷の里にいた時に、何か内証の男でも拵《こしら》えていたので、その秘密を知っている隣り村の安吉が、それを枷《かせ》にかれらを苦しめているのであろうと半七は推量した。しかもそれに対するお鉄の返事は意外であった。
「はい、若いおかみさんの生まれ年を知っていますので……」
「生まれ年……」
「親分さんの前ですから申し上げますが、おかみさんは生まれた年を隠しているのでございます」
と、かれは思い切ったように云った。
加賀屋の嫁のお元は弘化二年|巳《み》年の生まれと云っているが、実は弘化三年|午《うま》年の生まれであるとお鉄は初めてその秘密を明かした。単に午年ならば仔細はないが、弘化三年は丙午《ひのえうま》であった。この時代の習慣として、丙午の年に生まれた女は男を食い殺すという伝説が一般に信じられていたので、この年に生まれた女の子は実に不幸であった。生んだ親たちも無論にその不幸を分かたなければならなかった。お元も不幸に生まれた一人で、なんの不足もない豪家の娘と云いながら、その生まれ故郷ではとても相当の嫁入り先を見いだすことが出来そうもなかった。さりとて余りに身分違いの家と縁組するわけにもいかないので、親たちから土地の庄屋にたのんで、人別帳《にんべつちょう》をうまく取りつくろって、午年の娘を巳年の生まれと書き直して貰って置いた。それで表向きは先ず巳年で通るのであるが、土地の者は皆ほんとうの生まれ年を知っているので、親たちもいろいろに心配して、結局その嫁入り先を、遠い江戸に求めたのであった。お元が質素にして故郷を出て来たのも、その嫁入先を秘密にして置かなければならない必要に迫られたからであった。お鉄は勿論その事情をよく承知していた。
これほどに苦労した甲斐があって、加賀屋の方ではなんの気もつかないらしく、お元は夫婦の仲も睦まじく、姑ともよく折り合って、一家円満に日を送っているので、本人は勿論、一緒に附き添って来たお鉄も先ずほっ[#「ほっ」に傍点]と息をついた。しかも足かけ三年目の秋になって、その平和を破壊すべき恐ろしい悪魔のかげが突然ふたりの女をおびやかした。それは隣り村の安吉という若い百姓であった。かれの母は取り上げ婆さんを職業にしていて、現にお元の生まれるのを取り上げた関係上、丙午の秘密をよく知っていた。勿論その当時、お元の親たちはかれに口止め料をあたえて秘密を守る約束を固めて置いたが、広い世間の口をことごとく塞《ふさ》ぐわけには行かなかった。ましてその伜の安吉がそれを知らない筈がなかった。かれは或る事情から江戸に出て来て、八幡祭りを見物に行った時に、偶然かのお元とお鉄とにめぐり逢ったのであった。
江戸と熊谷と距《はな》れているので、ふたりの女はなんにも知らなかったが、安吉が江戸へ出て来たのは、かの太田の金山の松茸献上がその因をなしていたのであった。太田を出た御用の松茸は、上州から武州の熊谷にかかって、中仙道を江戸の板橋に送り込まれるのが普通の路順で、途中の村々の若い百姓たちはみなその人足に徴発されて、宿々の問屋場に詰めるのが習いであった。安吉もやはりその一人で他の人足仲間と一緒に宿《しゅく》の問屋場に詰めていたが、横着者の彼はあとの方に引きさがって悠々と煙草をのんでいた。やがて松茸
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