の女は白昼に幽霊を見たよりも驚いた。お鉄は連れの女中に覚《さと》られないように、安吉をそっと物蔭へ連れていって、なんにも云わずに幾らかの金をやって別れた。
 その場はまずそれで済ませたが、安吉は執念ぶかく彼等のあとを尾《つ》けて行って、この女連れが親類の家へ入るのを見とどけた。そうして、お元が外神田の加賀屋の嫁になっていることを探り出したので、その後もたびたび加賀屋をたずねて、お鉄を呼び出して金の無心を云った。その無心を肯《き》かなければ、かの丙午の秘密をお元の夫や姑に訴えると嚇した。それは死ぬよりも恐ろしいことであるので、お元は弱い心をおびただしく悩まされた。お鉄も共々に心配して、しきりに口止めの方法を講じていたが、安吉の無心は際限がなかった。かれは本所の木賃宿《きちんやど》に転がっていて、お元から強請《ゆす》る金を酒と女に遣い果たすと、すぐに又お鉄をよび出して来た。お元も嫁の身の上で、店の金銭を自分の自由にするわけにはゆかなかった。熊谷の里へ頼んでやるにも適当の使がなかった。彼女はよんどころなくお鉄と相談して、自分の持ち物などをそっと質入れして、彼の飽くなき誅求《ちゅうきゅう》を充たしていたが、それも長くは続きそうもなかった。人の知らない苦労に、主人も家来も痩せてしまった。
 十一月の末に、安吉は又もや五両の無心を云って来た。しかし其れだけの都合が出来なかったので、お鉄は三両の金を本所の木賃宿までとどけにゆくと、安吉はひどく不平らしい顔をした。しかも彼は酔っている勢いでお鉄に猥《みだ》りがましいことを云い出した。お鉄は振り切って逃げて帰ろうとするのを、かれは腕ずくで引き留めたので、何事も主人のためと観念して、お鉄はなぶり殺しよりも辛い思いをしなければならない破目《はめ》に陥った。その安吉は自分もお尋ね者であることを初めて明かして、もうこうなった以上、お元からまとまった金を貰って、どこか遠いところへ行って、一緒に暮らそうとお鉄をそそのかした。
 その以来、お鉄はかれに対する今までの恐怖が俄かにおさえ切れない憎悪《ぞうお》と変じた。主人の為、いっそ憎い仇をほろぼしてしまおうと決心して、お鉄は巧みに詞《ことば》をかまえて、彼を両国橋の上によび出した。彼女は帯のあいだに剃刀を忍ばせて、宵から橋の上に安吉を待ちうけていた。半七が彼女を身投げと見あやまったのはその時で、その
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