、つまらないことはするもんじゃあねえ」
 半狂乱のうちでも、お鉄はさすがに半七の声を聞き分けたらしく、身をもがきながら息を喘《はず》ませた。
「親分さん。どうぞ放してください。あいつ、畜生、どうしても殺さなければ……」
「まあ、あぶねえ。殺すほどの悪い奴があるなら、俺がつかまえてやる」
 その一句を聞くと、男はなんと思ったか俄かに引っ返して逃げ出した。もう猶予はならないので、半七は先ずお鉄の手から剃刀をもぎ取って、つづいて彼のあとを追って行った。男はやはり大通りへ出るのを避けて、うす暗い裏通りの横町を縫って池の端の方角へ逃げてゆくのを、半七も根《こん》よく追いつづけた。敵がだんだんに背後《うしろ》へ迫って来るので、逃げる男はいよいよ慌てたらしく、凍っている小石を滑《すべ》ってつまずくところへ、半七が追い付いてその帯の結び目をつかむと、帯は解けかかって、男は少しためらった。そこを付け入って更にかれの袖を引っ掴《つか》むと、男はもう絶体絶命になったらしく、着ている布子《ぬのこ》をするりと脱いで、素裸のままでまた駈け出した。半七はうしろからその布子を投げかけたが、ひと足の違いで彼は運よく摺り抜けてしまった。
 こうして一生懸命に逃げたが、敵は息もつかせずに追い迫って来るので、男はもう逃げ場を失ったらしい。かれは眼の前に大きく開けている不忍池の水明りをみると、滑るようにそこに駈けて行って、裸のままで岸から飛び込んだ。これほど強情に、逃げて、逃げて、しかも最後には池に飛び込むという以上、かれは何かの重罪犯人であるらしく思われたので、半七も着物をぬいでいる間《ひま》もなしに、この寒い夜に水にはいった。

     四

 不忍池に沈んだ男の姿は容易に見あたらなかった。加勢の手をかりて、かれの凍った死骸を枯れた蓮の根から引き揚げたのは、それから小半|※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《とき》の後であった。水練をしらないらしい彼が、この霜夜に赤裸で大池へ飛び込んだのであるから、その運命は判り切っていた。しかし彼の素姓も来歴もわからないので、その死骸を係りの役人に引き渡して置いて、半七は濡れた着物を着換えるために一旦自分の家へ帰ると、お鉄が蒼い顔をして待っていた。
「やあ、お鉄。来ていたのか」
「先程からお邪魔をして居りました」
「そりゃあ、丁度いい。実はこれからお前を呼び出
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