、この事件の疑問は専らその一点に置かれているので、水にぬれたお葉の死骸は念を入れて検《あらた》められたが、別に手がかりとなるようなものも見いだされなかった。しかしその死骸が水を飲んでいるのをみると、息のあるうちに沈んだことだけは確かめられた。
「どうでしょう。この池を掻掘《かいぼ》りさせるわけには行きますまいか」と、半七は云った。
池の底にどんな秘密がひそんでいないとも限らないので、役人たちもすぐに同意した。人足どもを呼びあつめて、師走《しわす》の寒い日にその池の掻掘りをはじめると、水の深さは一丈を越えていて、底の方から大小の緋鯉や真鯉が跳ね出して来たが、そのほかにはこれというような掘出し物もなかった。お葉のさしていたらしい櫛が一枚あらわれた。小半日をついやして、これだけの獲物《えもの》しかないので、役人たちも失望した。それから家内を隈なく猟《あさ》ってみたが、どこも皆きちんと片付いていて別に取り散らしたような形跡もみえなかった。差しあたりはこの以上に詮議のしようもないので、あとの探索は半七にまかせて、役人たちは一旦引き揚げた。
半七はあとに残って、其月の身許《みもと》しらべに取りかかった。かれの親類や、かれの弟子や、出入りの者や、それらの住所姓名を一々に調べることにした。子分の庄太を千住へやって、お葉の身許もしらべさせた。検視が済んでも、誰かその始末をする者がなくては、二つの死骸をどうすることも出来ないので、家主と近所の者四、五人があつまって来て、ともかくもその死骸の番をしていることになった。半七も坐っていた。みじかい冬の日がもう暮れかかる頃になって、其月の弟子たちがだんだんに寄って来たが、かれらは不慮の出来事におどろき呆れているばかりで、どの人の口からも何かの手がかりになるような新らしい材料をあたえてくれなかった。あかりの点《つ》く頃に半七はそこを出て、町内の自身番へゆくと、道具屋の惣八は飛んだ係り合いで、まだそこに留められているので、番屋の炉のそばに寒そうに竦《すく》んでいた。
「道具屋さん。お気の毒だね。節季師走《せっきしわす》のいそがしい最中に、いつまでも留められていちゃあ困るだろう。もういい加減に帰っちゃあどうだね」
「帰ってもよろしゅうございましょうか」と、惣八は生きかえったように云った。
「どうで直ぐには埓《らち》があきそうもねえから、用があったら又よび出すとして、今夜はいったん帰ったらよかろう」
「ありがとうございます。お呼び出しがあればきっと直ぐにまいります」と、惣八はあわてて帰り支度にかかった。
「だが、ちょいと待ってくんねえ」と、半七は声をかけた。「すこし訊《き》きてえことがある。こっちでも手を入れて調べさせてはあるが、あのお葉という女中、あれは唯の奉公人じゃあるめえ、主人と係り合いがあるんだろうね」
「どうもそうらしいという評判です。わたくしもよくは知りませんが……」と、惣八はあいまいに答えた。
「長年《ちょうねん》しているのかえ」
「おととし頃から来ているように思います。ことしはたしか十八になりましょう。そんなことはお弟子のうちでも其蝶《きちょう》という人がよく知っている筈です」
其蝶は本名を長次郎といって、惣八と同商売の尾張屋という家《うち》の惣領息子であるが、俳諧に凝りかたまって店の仕事は碌々見向きもしないので、おやじが去年死んだ後、おふくろは親類と相談の上で、妹娘のお花に婿をとって、其蝶の長次郎は別居させることになった。其蝶も結局それを仕合わせにして、若隠居というほどの気楽な身分でもないが、ともかくも柳原に近いところに小さい家を借りて、店の方から月々いくらかの小遣いを貰って暮らしている。しかしそれだけでは勝手向きが十分でないので、来年の春には師匠の其月をうしろ楯に、立机《りゅうき》の披露をさせて貰って、一人前の俳諧の点者として世をわたる筈になっている。かれは今年二十六で、女房も持たず、下女もおかず、六畳と四畳半とふた間の家に所謂《いわゆる》ひとり者の暢気《のんき》な生活をしているとのことであった。
「その其蝶とお葉とおかしいようなことはあるめえな」と、半七は笑いながら訊《き》いた。
「さあ」と、惣八もすこし考えていた。「そんなことは知りません。其蝶は師匠の家へ足を近く出入りはしていますが、まさかにそんなことはないでしょう。風流一方に凝りかたまっている偏人ですからね」
「あの宗匠は都合がいいかえ」
「相当に名前も売れていて、点をたのみに来るものも随分あるようですから、困るようなことはありますまい。いい弟子や、いい出入り先もありますから、内職のほうでも又相当の収入《みいり》があるようです」
「内職とはなんだえ。掛物や短冊の売り込みかえ」
「まあ、そうです」と、惣八はうなずいた。「わたくし共もときどきに持ち込みますが、筋のいい物でさえあれば大抵どこへか縁付けてくれます」
「おまえさん、この頃に何か持ち込んだかえ」
「へえ」と、惣八はなんだか詞《ことば》をにごしていた。
「隠しちゃあいけねえ。正直に云ってくれ。ほんとうに何か持ち込んだのかよ」
「芭蕉と其角の短冊を持って行きました」
「それだけかえ。そうして、それはどうした」
「どうも筋がよくないというので、取り合ってくれませんでした」と、惣八はにが笑いをした。
店さきのうす暗い行燈《あんどう》のひかりで、半七はその顔色をじっと睨んでいたが、やがて少しく形をあらためた。
「おい、惣八。おめえはなぜ隠す。短冊や色紙のほかに、あの宗匠のところへ何か持ち込んだものがあるだろう。正直に云わねえじゃあいけねえ」
「へえ」
「へえじゃあねえ。はっきり云いねえ。下手《へた》に唾《つば》を呑み込んでいると、いつまでも帰さねえよ」
ずいぶん悪摺れのしているらしい惣八も、半七に睨まれてさすがにうろたえた。なにぶんにも相手が相手であるので、なまじい隠し立てをしてはよくないと早くも観念したらしく、かれは正直に白状した。
「実はわたくしもそれに就いて少々迷惑していることがありますので……。それで今朝も宗匠のところへ出かけますと、あの一件で……。いや、どうも驚いているのでございます」
それは例の金魚の一条であった。芭蕉と其角の短冊は問題にされなかったが、金魚の方は心あたりがあるというので、四、五日経ってから惣八は再びその模様を探りに行くと、其月はその売れ口があると云ったので、惣八はよろこんで帰って、早速その売り主の元吉というのを連れて行くことになった。一番《ひとつが》いの朱錦を小さい塗桶のようなものに入れて、元吉が大切にかかえて行った。見たところ普通の金魚と変らないのであるから、まず眼のまえで試《ため》してみなければならないというので、其月の家ではありあわせの銅盥《かなだらい》に湯を入れて持ち出した。湯のなかで生きていられるといっても熱湯ではとても堪まらないのであるから、売り主はいいくらいに湯加減をして置いて、さてその金魚を放してみると、二匹ながら紅い尾を振って威勢よく泳ぎまわったので、其月も得心《とくしん》した。惣八も今更のように感心した。これでいよいよ其月の手でどこへか売り込んでくれることに決まったが、其月はその売り先を明かさなかった。わたしにあずけて置いて下されば、きっと云い値で売ってあげると云った。かれが売りさきを明かさないのは、おそらくこっちの云い値以上に売り込んで、そのあいだで幾らかの儲けを見るつもりであろうと察したので、惣八らも深く詮議しなかった。売り込みで儲けた上に、こっちからも約束の礼金を取って、其月は二重の利益を得るわけであるが、それはめずらしくもないことであるので、惣八らも怪しまなかった。ふたりは何分おねがい申すと云って、かの金魚をあずけて帰ると、それから又五、六日の後にお葉が使に来て、惣八にいつでも来てくれと云うので、かれはすぐに出かけてゆくと、其月は金魚の代金八両二分をとどこおりなく渡してくれた。惣八ははじめの約束通りに、そのうちから二両の礼金を置いて帰った。
これで片が付いたと思っていると、三日ほどの後に又もやお葉が迎えに来たので、惣八は何ごころなく行ってみると、其月がひどくむずかしい顔をして待っていた。そうして、おまえは多年わたしの家に出入りをしていながら、実に怪《け》しからん男だ。あんないかさま物を持ち込んで来て、人をぺてん[#「ぺてん」に傍点]にかけるとは何事だと、あたまから呶鳴《どな》りつけた。惣八は面喰らって、その仔細をだんだんに聞き糺すと、かの金魚は普通のもので、湯のなかで生きるものではないというのであった。なるほど、ここで試《ため》した時には無事であり、先方へ持って行って試した時にも無事であったが、金魚は二匹ながらその翌日死んでしまった。察するにこれは普通の金魚の肌へ何か薬をぬりつけて、一時を誤魔化したものに相違ない。その薬がだんだん剥《は》げるにしたがって、金魚は弱って死んだのであろう。そんな騙《かた》りめいたことをして済むと思うか。第一、売り先に対してわたしが面目を失うことになる。この始末はどうしてくれると、其月はひたいに青い筋をうねらせて手きびしく責めた。
「親分の前ですが、その時はまったく困りましたよ」と、惣八は今更のように溜息をついた。
三
「すると、その金魚がすぐに死んだので、宗匠は先方に申し訳がないと云うんだね」と、半七はすこし考えていた。「だが、もともと生き物のことだ。飼いようが悪くって死なねえとも限らねえ。時候の加減で斃《お》ちねえとも云われねえ。金魚だって病気もする、それを一途《いちず》にこっちのせいにされちゃあ困るじゃあねえか」
「それを云ったのでございますよ」と、惣八は訴えるように云った。「ところが、宗匠はどうしても肯《き》いてくれないで、なんでも贋物を売ったに相違ない。ふだんが不断だから、おまえの云うことは的《あて》にならないと……」
「不断よっぽどまやかし物を持ち込んでいるとみえるね」
「御冗談を……」と、惣八はあわてて打ち消した。「まったくあの宗匠は一国《いっこく》で、一旦こうと云い出したが最後、なんと云っても承知しないんですから」
「それからどうした」
「どうにもこうにもしようがありません。といって、あの宗匠の家の出入りを止められると、これからの商売にもちっと差しさわることもありますので、よんどころなしに御無理ごもっともと一旦は引きさがって来て、とりあえず売り主の元吉にその話をしますと、元吉も素直には承知しません。つまりお前さんが仰しゃったと同じような理窟を云っているので、わたくしも両方の仲に立って困ってしまいまして、実は今朝ほどもそのことで宗匠の家へ出かけて行くとあの一件で……。かさねがさね驚いているのでございます」
「一体その売り主の元吉というのは何者だえ」
「本所の金魚屋の甥でございまして、自分は千住に住んで居ります」と、惣八は説明した。
「そこも自分の叔母の家で、その二階に厄介になっていて、まあこれといって決まった商売もないのですが、叔父が金魚屋で、その方の手から出たというのですから、今度の金魚もまあ間違いはないと思っているのです。当人も決していかさま物ではないと云うのですが、わたくしも何分その方は素人《しろうと》のことで、実のところはどっちがどうとも確かには判らないので困って居ります」
「元吉というのは幾つだ」
「二十三でございましょう」
「そうか。まあ、そのくらいでよかろう。じゃあ、また呼び出したらすぐに来てくれ」
「かしこまりました」
籠から放された鳥のように、惣八は怱々に出て行った。そのうしろ姿を見送って、半七は炉のそばで煙草を二、三服つづけて吸っていると、背のたかい男がうす暗い表から覗いた。それは子分の松吉であった。
「親分、いま帰りました」
「やあ、御苦労、寒かったろう。まあ、火のそばへ来い」
「まったく冷えますねえ。風はないが、身にしみます。近いうちに雪かも知れませんよ」と、松吉は店へあがって炉のまえに坐った。
「この寒空に金魚を売ろうの
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