文化文政のころに流行《はや》って、一旦すたれて、それが又江戸の末になってちょっと流行ったことがあります。しょせんは一時の珍らしいもの好きで長くはつづかないんですが、それでも流行るときには馬鹿に高い値段で売り買いが出来る。例の万年青《おもと》や兎とおなじわけで、理窟も何もあったものじゃありません。そう、そう、その金魚ではこんな話がありましたよ」
お玉ヶ池の伝説はむかしから有名であるが、その旧跡は定かでない。地名としては神田|松枝町《まつえちょう》のあたりを総称して、俗にお玉ヶ池と呼んでいたのである。その地名が人の注意をひく上に、そこには大窪詩仏や梁川星巌《やながわせいがん》のような詩人が住んでいた。鍬形※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]]斎《くわがたけいさい》や山田芳洲のような画家も住んでいた。撃剣家では俗にお玉ヶ池の先生という千葉周作の道場もあった。それらの人達の名によって、お玉ヶ池の名は江戸時代にいよいよ広く知られていた。
これは勿論、それらの人々と肩をならぶべくもないが、俳諧の宗匠としては相当に知られている松下庵其月《しょうかあんきげつ》というのがやはりこのお玉ヶ池に住んでいた。この辺はむかしの大きい池をうずめた名残《なごり》とみえて、そこらに小さい池のようなものがたくさんあった。其月の庭には蛙も棲んでいられるくらいの小さい池があって、本人はそれがお玉ヶ池の旧跡だと称していたが、どうも信用が出来ないという噂が多かった。かれはその池のほとりに小さい松をうえて、松下庵と号していたのであるが、その点を乞いに来る者も相当あって、俳諧の宗匠としては先ず人なみに暮らしていた。
弘化三年十一月のなかばである。時雨《しぐれ》という題で一句ほしいような陰《くも》った日の午《ひる》すぎに、三十四五の痩せた男が其月宗匠の机のまえに黒い顔をつき出した。
「おまえさんに少しお願いがあるんですがね」
かれは道具屋の惣八という男で、掛物や色紙短冊《しきしたんざく》も多年取りあつかっている商売上の関係から、ここの家の門《かど》を度々くぐっているのであった。其月は机の上にうずたかく積んである俳諧の巻をすこし片寄せながら微笑《ほほえ》んだ。
「惣八さんのお願いでは、また何か掘り出しものの売り込みかね。おまえさんの物はこのごろどうも筋が悪いといって、どこでも評判がよくない
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