半七捕物帳
半七先生
岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)額《がく》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)嘉永|庚戌《かのえいぬ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)なあ[#「なあ」に傍点]
−−

     一

 わたしがいつでも通される横六畳の座敷には、そこに少しく不釣合いだと思われるような大きい立派な額《がく》がかけられて、額には草書《そうしょ》で『報恩額』と筆太《ふでぶと》にしるしてあった。嘉永|庚戌《かのえいぬ》、七月、山村菱秋書という落款《らくかん》で、半七先生に贈ると書いてあるのも何だかおかしいようにも思われた。この額のいわれを一度きいて見ようと思いながら、いつもほかの話にまぎれて忘れていたが、ある時ふと気がついてそれを言い出すと、老人は持っている煙管《きせる》でその額を指しながら大きく笑った。
「はは、これですか。ははははは。どうです、半七先生が面白いじゃありませんか。これでも先生ですぜ。この額をかいてくれたのは、神田の手習い師匠の山村小左衛門という人で、菱秋《りょうしゅう》というのは其の人の号ですよ」
「それにしても、報恩額というのはどういう訳です。なにかのお礼にでも書いてくれたんですか」と、わたしは訊《き》いた。
「そうですよ。まあ、お礼の心で書いてくれたんです。それにはこういう因縁があるので……。又いつもの手柄話をして聴かせますかね」

 嘉永三年七月六日の宵は、二つの星のためにあしたを祝福するように、あざやかに晴れ渡っていた。七夕《たなばた》まつりはその前日から準備をしておくのが習いであるので、糸いろいろの竹の花とむかしの俳人に詠《よ》まれた笹竹は、きょうから家々の上にたかく立てられて、五色《ごしき》にいろどられた色紙《いろがみ》や短尺《たんざく》が夜風にゆるくながれているのは、いつもの七夕の夜と変らなかったが、今年は残暑が強いので、それは姿ばかりの秋であった。とても早くは寝られないので、どこの店さきも何処の縁台も涼みながらの話し声で賑わっていた。半七も物干《ものほし》へあがって、今夜からもう流れているらしい天《あま》の河をながめていると、下から女房のお仙が声をかけた。
「ちょいと、お粂《くめ》さんが来てよ」
「そうか」と、云ったばかりで、半七はべつに気にも留めないでいると、つづいてお粂の声がきこえた。
「兄さん。ちょいと降りて来てくださいよ。すこし話があるんだから」
「なんだ」
 団扇《うちわ》を持って降りてくると、お粂は待ち兼ねたように摺り寄って云った。
「あの、早速ですがね、おまえさんも知っているでしょう、甲州屋のなあ[#「なあ」に傍点]ちゃんを……」
「むむ、知っている」
 半七の妹が神田の明神下に常磐津の師匠をして、母と共に暮らしていることは、前にもしばしば云った。そのすぐ近所に甲州屋という生薬屋《きぐすりや》があって、そこのお直《なお》という娘がお粂のところへ稽古に通っているのを、半七も知っていた。
「そのなあ[#「なあ」に傍点]ちゃんが何処へか行ってしまったのよ」と、お粂は少し小声で云った。
 かれの訴えによると、お直のなあ[#「なあ」に傍点]ちゃんは行方不明になったというのである。お直はことし十三で、手習い師匠山村小左衛門へも通っていた。山村は甲州屋から三町あまり距《はな》れているところに古く住んで、常に八九十から百人あまりの弟子を教えていて、書流は江戸時代に最も多い溝口《みぞぐち》流であった。手習い一方でなく、十露盤《そろばん》も教えていたが、人物も手堅く、教授もなかなか親切であるというので、親たちのあいだには評判がよかった。しかし弟子のしつけ方がすこぶる厳しい方で、かの寺小屋の芝居でもみる涎《よだれ》くりのように、水を持って立たされる手習い子が毎日幾人もあった。少し怠けると、すぐ大叱言《おおこごと》のかみなりが頭の上に落ちかかって来るので、いわゆる「雷師匠」として弟子たちにひどく恐れられていた。
 手習い子は手ならい草紙《そうし》で習って、ときどきに清書草紙に書くのであるが、そのなかでも正月の書初《かきぞ》めと、七月の七夕祭りとが、一年に二度の大清書《おおぜいしょ》というので、正月には別に半紙にかいて、稽古場の鴨居《かもい》に貼りつける。大きい子どもは唐紙《とうし》や白紙に書くのもある。七夕には五色のいろ紙に書いて笹竹に下げる。これは普通の色紙《しきし》でなく、その時節にかぎって市中の紙屋で売っている薄い短尺《たんざく》型の廉《やす》い紙きれであるが、この時にも大きい子供はほんとうの色紙や短尺に書くのもある。七月に入ると、手習い子はみな下清書をはじめて、前日の六日にいよいよ其の大清書にかかるのである。
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