ゃあ、国へ帰っても夫婦になれめえな」
彼女はまた黙ってしまったが、その俯向《うつむ》いている鬢《びん》の毛の微かにそよいでいるのが、半七の眼についた。
「おい、おかん。もうこうなったら、何もかも正直に申し立ててお上《かみ》の慈悲をねがえ。おまえと重吉とはおなじ国者だ。それが一つ屋根の下に毎日一緒に暮らしていれば、おたがいに気も合い、話も合って、若い者同士がいろいろの約束をするのも無理はねえ。だが、男という奴は気の多いもので、おまえというものを袖にして、いつか尾張屋の娘とも仲よくなって、さぞ口惜《くや》しかったろう。おれも察しるよ」
おかんはやはり俯向いていた。
「ところが、おれに少し判らねえ事があるから教えてくれ」と、半七は云った。「尾張屋の娘はなぜ鼠捕り粉を買ったのだ。ひとりで死ぬつもりか、心中《しんじゅう》かえ。おい、黙っていちゃあいけねえ。それに因っておまえの罪の重い軽いも決まるのだ。はっきり云ってくれ。どの道おまえは無事に主人の家《うち》へ帰られる身の上じゃあねえ。くどいようだが、正直に申し立てて御慈悲を願うがいいぜ」
「どうしても家へは帰れないのでございましょうか」と、おかんは蒼ざめた顔をあげた。
「知れたことさ。重吉という男ひとりを殺して置いて、無事に帰される筈がねえじゃねえか」
おかんは泣き伏してしまった。
雷獣事件はこれで解決した。
万事が半七の鑑定通りであった。重吉はおかんと夫婦約束をしていながら、さらに尾張屋のお朝とも親しくなった。それを知って、おかんは火のように怒って、恋のかたきのお朝を殺してしまうとまで狂い立つのを、重吉はひそかに宥《なだ》めているうちに、お朝はいつか妊娠したらしいので、重吉はいよいよ困った。その秘密をまた知って、おかんは嫉妬の焔《ほむら》をいよいよ燃《も》した。世間しらずのお朝は、いたずらの罰が忽ち下されたのに驚いて、自分のからだの始末を泣いて重吉に相談した。おかんもかげへまわって男の薄情をはげしく責め立てた。
お朝には泣かれ、おかんには責められ、板挟みになってさんざん苦しんだ重吉は、途方にくれた自棄《やけ》半分の無分別から、お朝を説きつけて、一緒に死ぬことになった。お朝は素直に男のいうことを肯《き》いて、近所の薬屋から鼠捕り粉を買って来た。それは六月二十三日の朝であった。今夜、いよいよ死ぬという約束で、影のうすい男と女とは長い日のくれるのを待っていると、宵からの雨がやがて恐ろしい大風雨《おおあらし》になった。
死に急ぎをしている若い二人にとっては、この大風雨はむしろ仕合わせであるようにも思われた。女はまず約束の場所へ出てゆくと、男もあとから忍んで行った。折りからの風雨で、ほかの人達は気がつかなかったが、男のうしろにはおかんが影のように付きまとっていた。かれは絶えず男の行動を監視しているので、すぐそのあとをつけてゆくと、お朝と重吉とは蔵のまえで出逢った。
暗い物影にかくれて、おかんはそっと窺っていると、危うく消えかかる手燭を下に置いて、お朝はまず鼠捕り粉の半分ほどを一と息に飲んだ。そうして、ふるえる手先でその飲み残りの袋を男に渡そうとしたので、おかんはあわてて飛び出そうとする時、あたりは火のように明るい世界になった。おかんは夢中で小膝をついて、両手で自分の耳を掩いながら、しっかりと目を閉じてしまった。
毒薬をのんだお朝は雷にうたれた。これから毒薬を飲もうとした重吉は気をうしなって倒れた。もとより偶然の出来事ではあるが、雷はあたかも心中の場所に落ちて来て、しょせん死ぬべき女を殺し、まさに死のうとする男を救ったのであった。その驚きのなかにも、おかんは憎い二人の屍《しかばね》のうえに心中の浮名を立たせたくなかった。彼女はそれすらも妬《ねた》ましかったので、そこらに落ちている鼠捕り粉の袋を手早く隠してしまった。それから家内の人々を呼んで、この恐ろしい出来事を報告した。
雷に撃たれた二人がこの時どうしてそこにいたかということが、まず問題とされなければならなかったが、奥の便所へ通うには蔵の前を通らなければならないように出来ているので、お朝がここに倒れていたのは便所へ行く途中であったらしく思われた。重吉は蔵のなかへ何か取り出しに行ったのであろうと想像された。
憎い女が突然この世から消えてしまって、男ばかりが生き残ったのは、おかんに取ってはこの上もない好都合であった。かみなりは彼女に守護神ともいうべきであった。しかし彼女はやはり不運を逃がれることは出来なかった。お朝の死についで起ったのは相続人の問題で、重吉がその候補者のうちで最も有力の一人であるらしいので、おかんは又もや気を揉みはじめた。重吉が尾張屋の相続人となってしまえば、おそらく奉公人の自分をこの店の嫁にしないであろう。かりに重吉が承知したとしても、世間の手前、喜左衛門が承知しないであろう。こう思うと、かれは又新しい苦労をしなければならなかった。
そのうちに其の話はだんだん進行するらしい形跡がみえて、二七日の前日におかんが松倉町の三河屋へ使にゆくと、そこでもそんな噂を聞かされたので、彼女はもう落ち着いていられなくなった。寺まいりの当日、主人や重吉が今戸へ行った留守に、おかんはいろいろに思案した。かれはとうとう思案をきめて、重吉の帰りを待った。
重吉らが帰ってくる頃から又もや雷雨になった。この出来事におびえて、家内の者どもが縮みあがっている隙をみて、おかんは重吉を蔵のまえに連れ込んだ。かれは男にむかって、相続人のきまらないうちに自分と一緒に逃げてくれと迫ったが、重吉は肯《き》かなかった。そればかりでなく、自分はお朝の菩提のために一生|独身《ひとりみ》でいるつもりであるから、おまえも思い切ってくれと云い出したので、おかんは狂気のようになって、男の変心を責めた。そうして、もし自分のいうことを肯いてくれなければ、お朝が毒薬をのんだ秘密を主人に訴えると嚇《おど》したが、男はやはり動かなかった。訴えるならば訴えてよい。自分は心中の片相手として殺されてもいいと云った。
「それほど死にたくば殺してやる」
おかんは赫《かっ》となって男の喉をしめた。在所《ざいしょ》生まれで、ふだんから小力《こぢから》のある彼女が、半狂乱の力任せに絞めつけたので、孱弱《かよわ》い男はそのままに息がとまってしまった。男がどうしても肯かなければ、かれを殺して自分も身をなげて死ぬと、おかんはかねて覚悟していたのであるが、その場になると彼女は俄かに気おくれがした。わが眼のまえに倒れている男の死骸をながめながら、彼女はぼんやり考えていると、雷の音は又ひとしきり凄まじくなって、今夜もここから遠くないところに落ちたらしく、大地もゆれるように震動した。その一刹那にかれは何事をか思いついて、死んでいる男の顔や手先を爪で引っかいた。
「おかんは死罪になりました」と、半七老人はわたしに話した。「今日《こんにち》でしたら情状酌量にもなったのでしょうが、その時代ではどうもそう行きませんでした。それも自訴でもしたら格別、男の顔を引っかいて雷獣の仕業らしく見せるなんていう狂言をこしらえて、自分は素知らぬ顔をしていたんですから、罪はいよいよ重くなったわけです。問題の雷獣は、おかんの白状によると、最初の時にはほんとうに見たというのです。二度目の時にはそれから思いついて、重吉の顔や手さきを掻きむしったのだといいます。勿論、善いことじゃありませんが、かんがえてみると可哀そうで、おかんがいよいよ死罪と聞いたときには、私もなんだか忌《いや》な心持がしましたよ」
「可哀そうも可哀そうですが、女というものは恐ろしいもんですね」
「まったく恐ろしい。あなたなんぞは若いから気をおつけなさい。いや、恐ろしいの何のと云っても、今のおかんという女なんぞは、そこに自然と憐れみも出ますけれど、なかには、まだ肩揚げもおりない癖に、ずいぶん生《い》けっ太《ぷと》い奴がありますからね。まあ、お聴きなさい、こんな奴もありますよ」
云いかけて老人は笑いながら私の顔を見た。
「あなたは甘酒はどうです」
「子供のときに飲んだきりですが……」と、わたしも笑った。
「あれは江戸の夏のものですよ。固練《かたね》りのいいのを貰ったのがあります。息つぎに一杯あっためさせますから、あなたもお附き合いなさい」
「久し振りで御馳走になりましょう」
三
あま酒で元気をつけて、半七老人は団扇《うちわ》の手を働かせながら又話し出した。
「あれはたしか文久三年とおぼえています。なんでも六月の末でした。新宿の新屋敷……と云っても、今の若い方々は御存知ないかも知れませんが、今日《こんにち》の千駄ヶ谷の一部を俗に新屋敷と唱えまして、新屋敷六軒町、黒鍬町《くろくわちょう》、仲町通りなどという町名がありました。いつの時代にか新らしい屋敷町として開かれたので、新屋敷という名が出来たのでしょう。その辺には大名の下屋敷、旗本屋敷、そのほかにも小さい御家人《ごけにん》の屋敷がたくさんありまして、そのあいだには町屋《まちや》もまじっていましたが、一方には田や畑が広くつづいていて、いかにも場末らしい寂しいところでした。
前にも申す通り、六月末の夕方、その仲町通りの空《あき》屋敷の塀外に人立ちがした。というのは、そこに不思議なものを見付けたからで、何十匹という蛇がからみ合ってとぐろをまいて、地面から小一尺もうず高く盛りあがっている。勿論、ここらで蛇や蛙をみるのは珍らしくないので、一匹や二匹|蜿《のた》くっているのならば、誰もそのままに見過ごしてしまうんですが、何分にもたくさんの蛇が一つにあつまって、盛りあがるようにとぐろをまいているんですから、よほど変っています。そこで、通りがかりの人が始めは一人立ち、ふたり立ち、又それを聞きつたえて近所の屋敷や町屋からもだんだん見物人が出て来たので、その蛇のまわりには忽ち二三十人も集まったんですが、ただそれを取りまいて見物しているばかり、どうする者もありませんでした。
『そのとぐろのなかには玉がある』
こんなことを云う者もありました。たくさんの蛇がうず高く盛りあがって大きい輪をつくっているのは蛇こしき[#「こしき」に傍点]とかいって、そのなかには、珍らしい玉がかくれていると、昔の人たちは云ったものです。で、今もそのとぐろを巻いているなかには、おそらく宝玉があるだろうという噂が立ったものですが、誰も思い切ってその蛇に手をつける者がない。たくさんの蛇はちっとも動かないで、眠ったように絡《から》み合っているばかりですが、誰がみても気味のいいものじゃありません。武家屋敷の中間《ちゅうげん》などのうちには、生きた蛇を食うというような乱暴者もあるんですが、なにしろ斯《こ》うたくさんの蛇がうず高く盛りあがっていては、さすがに気味を悪がって唯ながめているばかり。そのうちに夏の日も暮れかかって、天竜寺の暮れ六ツがきこえる頃、そこへ一人の若い娘が来ました。
娘は十四五で、武家育ちであるらしいことは其の風俗ですぐに判ったんですが、大勢の人をかきわけて、その蛇のそばへ寄ったかと思うと、みんなの口から思わずあっ[#「あっ」に傍点]という声が出た。それは無理もありません。その若い娘は単衣《ひとえ》の右の袖をまくりあげて、真っ白な細い手を蛇のとぐろのまん中へぐっと突っ込んだとお思いなさい。まだ十四五の小娘ですから、手の先どころじゃない、二の腕のあたりまでするすると這入って……。気の弱いものは見ただけでも慄然《ぞっ》として、眼を塞いでしまいたい位ですが、娘は平気でその白い腕を蛇のとぐろのなかへ入れてしばらく探りまわしているようでしたが、やがて何か掴《つか》み出したので、息を殺して見ていた人たちは又わやわやと騒ぎ出して、娘の手に持っているものを寄りあつまって覗いてみると、それはひと束《たば》の真っ黒な切髪で、たしかに若い女の髪の毛に相違ないので、大勢は又あっ[#「あっ」に傍点]と云う。それを耳にもかけないような風で、娘はその切髪
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