ほかの一人が入れ代って猪口を突き出すと、かれは猶予なしにそれをも飲んでしまった。
 それが一種の興をひいたらしく、ほかの群れから食いのこりの握り飯を持って来たものがあったが、彼はそれをも快くむしゃむしゃと食った。海苔巻の鮓や塩せんべいや、なんでもかでも彼のまえに突き出されたものは忽ちにみんな彼の口へはいってしまった。しかも彼は唯ときどきににやにやと笑うばかりで、かつて一と言も云わなかった。なにを話しかけても、なにを訊《き》いても、かれはつんぼうであるかのように、一切その返事をしなかった。かれは面白半分に職人から突き付けられた酒や食い物を、ただ黙って飲み食いしているだけであるので、まわりを取り巻いている人々も少しく倦《あ》きて来た。彼もさすがに満腹したらしく、勿論なんの挨拶もなしに、諸人の囲みをぬけて又ふらふらとあるき出した。
 彼はそれから何処へ行ったか、別に詮議《せんぎ》するものもなかった。どこの船でも午飯をすませて、再び潮干狩をつづけていると、やがて夕七ツ(午後四時)を過ぎたかと思うころに、かの男は又ふらふらとあらわれた。かれは誰に云うとも無しに、遠い沖の方を指さして叫んだ。
「潮
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