くなった。ある者はよろめき、ある者は吹き倒されて、いずれも砂の上にうつ伏してしまった。船の軒にかけてあるほおずき[#「ほおずき」に傍点]提灯《ちょうちん》や、そこらに敷いてある毛氈や薄縁《うすべり》のたぐいは、何者かに引っ掴まれたように虚空《こくう》遙かに巻きあげられた。人々は悲鳴をあげてうろたえ騒いだ。
船頭どもは駈けまわって、めいめいが預かりの客をともかくも船のなかへ助け入れようと燥《あせ》っているうちに、きょうはどうしたものか、予定の時刻よりも出潮《でしお》が少し早いらしく、砂地のそこからもここからも無数の蟹が群がったように白い泡をぶくぶく噴き出して来たので、船頭どもは又あわてた。
「潮がさして来る。潮が来る」と、かれらは暴《つよ》い風と闘いながら叫びまわった。
颶風も幸いに長くなかった。しかし潮はだんだんに満ちてくるので、人々はいよいようろたえて船へ逃げあがった。死人は一人もなかったが、颶風が吹いて通るときに木の枝や何かを叩きつけられて、顔や手足に負傷した者もあった。吹き倒されて貝殻や石に傷つけられた者もあった。手拭などは吹き飛ばされて、男も女もみな散らし髪になってしまった。船にぬいで置いた上衣《うわぎ》などは大抵どこへか飛んで行った。男の紙入れ、女のかんざし、そんな紛失物はかぞえ切れなかった。
はまぐりや浅蜊の獲物も大抵捨てて帰った。命に別状のなかったのをせめてもの仕合わせにして、きょうの潮干狩の群れはさんざんの体でみな引き揚げた。
二
めいめいの宿許《やどもと》へ引き揚げて、やれよかったと初めて落ちつくと共に、どの人の口に上《のぼ》ったのもかの奇怪な人間の噂であった。その風体《ふうてい》や挙動が奇怪であるのは云うまでもない、更に奇怪を感ぜしめたのは、彼が誰よりも先に颶風や潮を予報したことであった。老練の船頭すらもまだそれを発見し得ない間に、かれがどうして逸早《いちはや》くそれを予覚したのであろうか。はじめは気ちがいの囈言《うわごと》ぐらいに聞きながしていた彼の警告が一々図星にあたっていたのである。人か神か、仙人か、諸人はその判断に迷った。
混乱の折柄で、彼がそれからどうしたか、どこへ行ってしまったか、誰もたしかに見とどけた者はなかったが、最後にここを引き揚げたのは、築地|河岸《がし》の船宿|山石《やまいし》の船で、その船頭は清次と
前へ
次へ
全20ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング