ほかの一人が入れ代って猪口を突き出すと、かれは猶予なしにそれをも飲んでしまった。
それが一種の興をひいたらしく、ほかの群れから食いのこりの握り飯を持って来たものがあったが、彼はそれをも快くむしゃむしゃと食った。海苔巻の鮓や塩せんべいや、なんでもかでも彼のまえに突き出されたものは忽ちにみんな彼の口へはいってしまった。しかも彼は唯ときどきににやにやと笑うばかりで、かつて一と言も云わなかった。なにを話しかけても、なにを訊《き》いても、かれはつんぼうであるかのように、一切その返事をしなかった。かれは面白半分に職人から突き付けられた酒や食い物を、ただ黙って飲み食いしているだけであるので、まわりを取り巻いている人々も少しく倦《あ》きて来た。彼もさすがに満腹したらしく、勿論なんの挨拶もなしに、諸人の囲みをぬけて又ふらふらとあるき出した。
彼はそれから何処へ行ったか、別に詮議《せんぎ》するものもなかった。どこの船でも午飯をすませて、再び潮干狩をつづけていると、やがて夕七ツ(午後四時)を過ぎたかと思うころに、かの男は又ふらふらとあらわれた。かれは誰に云うとも無しに、遠い沖の方を指さして叫んだ。
「潮がくる、潮がくる」
その声におどろかされて、ある人々はかれの指さす方に眼をやったが、広い干潟《ひがた》に潮のよせてくるような景色はみえなかった。きょうの夕潮までにはまだ半刻《はんとき》あまりの間があることは誰も知っていた。かれは高い空を指さして又叫んだ。
「颶風《はやて》がくる。天狗が雲に乗ってくる」
今度かれが指さしたのは沖の方でなかった。かれは反対に陸《おか》の方角を仰いで、あたかも愛宕山《あたごやま》あたりの空を示しているのであった。この気ちがいじみた警告に対して、別に注意の耳をかたむける人も少なかったが、それでも品川の海に馴れている者は少しく不安を感じて、かれの指さす方角をみかえると、春の日のまだ暮れ切らない江戸の空は青々と晴れて鎮まっていた。
「颶風《はやて》がくる」と、かれは又叫んだ。
天気晴朗の日でも品川の海には突然颶風を吹き起すことがある。船頭たちは無論それを知っているので、この奇怪な男の警告を一概に笑って聞き流すわけにも行かなかったが、そうした恐ろしい魔風を運び出して来るらしい雲の影はどこにも見えないので、かれらはやはり油断していると、男はつづけて叫んだ。
「潮
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