も不思議に思って船足をゆるめると、怪しい人はやがてこちらの船へ泳ぎついて来た。喜兵衛は度胸を据えて引き上げさせると、かれは潮水に濡れたままで船端《ふなばた》に坐り込んで、だしぬけに何か食わせろと云った。云うがままに飯をあたえると、かれは平気で幾杯も食った。物も云えば、飯も食うので、それが普通の人間であることは判ったが、一体かれは何者で、どうして海のなかに浮かんでいたのか、その仔細は判らなかった。なにを訊《き》いても、かれの返事は要領を得なかった。かれは自分を江戸へ連れて行ってくれと云った。
こんな者を連れて帰ってもしようがないので、喜兵衛は残酷に彼を元の海へ投げ込ませると、かれは再び浮き出して、執念ぶかく船のあとを追って来た。それが大抵の魚よりも早いので、喜兵衛もなんだか恐ろしくなって来た。迷信の強い彼等は、この怪しい男をすてて帰って、それがために何かの禍いをまねくことを恐れたので、再び彼を引き上げさせて、とうとう江戸まで連れて帰ることになった。
金杉の浜へ着いて、ここで怪しい男と別れようとしたが、男は飽くまで付きまとって離れないので、喜兵衛らは持て余した。一つ船に乗せて来て、自分たちの秘密を薄々|覚《さと》られたらしい虞《おそ》れもあるので、いっそ彼を殺してしまおうかとも思ったが、人の腹の底を見透かしているような彼のするどい眼にじろりと睨まれると、胆《きも》の太い海賊共も思い切って手をくだすことが出来なかった。子分のひとりが品川に住んでいるので、喜兵衛はひと先ずそこに預けて彼を養わせることにしたが、かれは正覚坊《しょうがくぼう》のように大酒を飲んだ。不思議に生魚を好んで食った。そうしているうちに、どうして探し出したか、深川の喜兵衛の家へもたずねてきた。更に進んで、小梅のおとわの家へもその怪しい姿を見せるようになった。時によると、どうしても帰らないので、おとわはよんどころなく物置のなかに泊めてやることもあった。かれは品川に泊まって、今まで小半年《こはんとし》の月日を送っていたが、それが人の眼に立たなかったのは、いつでも隅田川から大川へ出て、更に沖へ出て、水のうえを往来していた為であろう。かれは魚とおなじように、どんなに冷たい水でも平気で泳いだ。ただ、水中で鮫なぞに襲われる危険を防ぐ為だと云って、常に匕首をふところに忍ばせていた。
ことしの三月四日、喜兵衛が同類
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