ある。半七がいつもよりも少し朝寝をして、楊枝《ようじ》をつかいながら縁側へ出ると、となりの庭の柘榴《ざくろ》の花があかく濡れていた。外では稗蒔《ひえまき》を売る声がきこえた。
「ああ、きょうも降るかな」
鬱陶《うっとう》しそうに薄暗い空をみあげていると、表の格子をがたぴしと明けて、幸次郎があわただしく飛び込んで来た。
「親分。起きましたかえ」
「いま起きたところだ。何かあったか」
潮干狩の一件以来、幸次郎は半七に催促されるのが苦しいので、築地河岸の船頭はいうまでもなく、芝浦から柳橋、神田川あたりの船宿をまわって、絶えず何かの手がかりを見つけ出そうと焦《あせ》っているうちに、けさ偶然にこんなことを聞き出したのである。しかもそれはゆうべのことで、神田川の網船屋の船頭の千八というのがおなじみの客をのせて隅田川の上《かみ》の方へ夜網に出た。客は本郷の湯島に屋敷をかまえている市瀬三四郎という旗本の隠居であった。あずま橋下からだんだんに綾瀬の方までのぼって行ったのは夜も四ツ(午後十時)をすぎた頃で、雨もひとしきり小歇《こや》みになった。もちろん濡れる覚悟であったから、客も船頭も蓑笠《みのかさ》をつけていたが、雨がやんだらしいので隠居は笠をぬいだ。笠の下には手ぬぐいで頬かむりをしていた。
「素人《しろうと》は笠をかぶっていると、思うように網が打てない」
隠居は自分でも網を打つのである。今夜はあまり獲物が多くないので、かれは少し焦《じ》れ気味でもあった。
「網を貸せ。おれが打つ」
船頭の手から網を取って、隠居は暗い水の上にさっと投げると、なにか大きな物がかかったらしい。鯉か鯰《なまず》かと云いながら、千八も手つだって引き寄せると、大きい獲物は魚でなかった。それはたしかに人の形であった。水死の亡骸《なきがら》が夜網にかかるのは珍らしくない。船頭はこれまでにもそんな経験があるので、又お客様かといやな顔をした。かがり火の光りでそれが男であることを知ると、彼はすぐに流そうとした。
「むかしの船頭仲間には一種の習慣がありましてね」と、半七老人はここでわたしに説明してくれた。「身投げのあった場合に、それが女ならば引き上げて助けるが、男ならば助けない。なぜと云うと、女は気の狭いものだから詰まらないことにも命を捨てようとする。死ぬほどのことでもないのに死のうとするのだから助けてやるが、男の
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