ば唯の人間になってしまって、なんの不思議を見せることも出来ないという伝説を、土地の老人から聞き知った為であった。それならばさのみ恐れることもないと幾分か安心して、かれはお熊と共に江戸へ帰った。九州の蛇神も江戸の土を踏めば唯の女になったらしく、気のせいか彼女の瞳のひかりも柔らかになった。お熊は容貌《きりょう》のよい情の深い女で、ほかに頼りのない身の上を投げかけて、かれ一人を杖とも柱とも取り縋《すが》っているのを徳三郎は惨《いじ》らしくも思った。こうして二人の愛情はいよいよ濃《こま》やかになったが、なにぶんにも小間物の担ぎ商いをしている現在の男の痩腕では、江戸のまん中で女と二人の口を養ってゆくのがむずかしいので、相談ずくの上でしばらく分かれ分かれに働くこととなって、お熊は男の口入れで河内屋に住み込んだ。幸いにその奉公先と徳三郎の宿とが遠くないので、お熊は主人の用の間をぬすんで時々に男のところをたずねていた。
それで小半年は先ず無事にすごしたが、ことしの春になって此の若い二人の魂をおびやかすような事件が突然|出来《しゅったい》した。二月のなかばの夕方に徳三郎が商売から帰る途中、浅草の広徳寺前でひとりの婆さんがあま酒の固練りを売っていたが、それはたしかにお熊の母のお綱であった。彼女は眼ざとく徳三郎を見つけて、つかつかと寄ってその袂を引っ掴《つか》んで、娘はどこにいるか直ぐに返せと叫んだ。徳三郎は死神《しにがみ》に出合ったよりも怖ろしくなって、殆ど夢中でかれを突き倒して逃げた。その晩から彼は大熱を発して、十日ばかりも蛇のように蜿うち廻って苦しんだ。
箱根を越せば蛇神の祟りはないというのも的《あて》にはならなかった。お綱はわが子のゆくえを尋ねて、九州から江戸まで遙々《はるばる》と追って来たのであろう。その強い執着心を思いやると、徳三郎はいよいよ怖ろしくなって来たので、彼はお熊に因果をふくめて娘を母の手に戻そうと覚悟したが、お熊はどうしても肯《き》かなかった。男にわかれて国へ帰るほどならば、いっそ死んでしまうと泣き狂うので、徳三郎も持て余した。そのうちに怪しい甘酒売りの噂はだんだん高くなって、それはお綱であることを徳三郎とお熊だけは知っていた。お熊は母に見付けられないように其の出入りを注意していたが、徳三郎はどうかんがえても不安に堪えなかった。世間の評判が高くなるほど彼の恐怖はいよいよ強くなって、再びお綱に見つけられたが最後、今度こそはおそらく自分の命を奪《と》られるであろうと恐れられた。かれは実に生きている空もなかった。
こうした不安の日を送るうちに、彼は大川端で偶然に半七に出逢った。半七の方では彼を識らなかったが、徳三郎の方ではその顔を見識っていたので、いっそ此の事情を何もかも打ち明けて彼の救いを求めようかと思ったが、やはり気怯《きおく》れがしてとうとう云いそびれてしまった。しかし運命はだんだんに迫って来た。お綱は根《こん》よく江戸じゅうを探しまわっているうちに、娘が河内屋に忍んでいることを此の頃いよいよ覚ったらしく、そこらに度々さまよっているばかりか、現に河内屋の番頭や小僧が蛇神の祟りを受けたという事実を見せられて、徳三郎の恐怖はもう絶頂に達した。彼は身のおそろしさの余りに、更に怖ろしい決心をかためて、今度お綱に出逢ったならば、いっそ彼女を殺してしまおうと思いつめた。徳三郎は短刀を買って、それをふところにして毎日|商《あきな》いに出あるいていた。
彼が借りている荒物屋の二階へ今夜もお熊が忍んで来て、二人にとっては重大の問題がまた繰り返された。徳三郎は短刀を女にみせて、自分の最後の決心を打ち明けた。併《しか》し自分も好んでそんなことをしたくない。人を殺したことが露顕《ろけん》すれば自分も命をとられなければならない。ここでお前がわたしのことを思い切って、すなおに母の手に戻ってくれれば三方が無事に済むのである。どうぞこれまでの縁とあきらめてくれと、彼はいろいろにお熊を説きなだめたが、女は強情に承知しなかった。彼女は泣いて泣いて、ものすごいほど狂い立って、いきなり男の短刀を奪い取って、自分の乳の下に深く突き透したのである。蛇神の血をひいた若い女は、こうして悲惨の死を遂げた。
「さりとは残念なこと。もう少し早くば、その娘だけは助けられたものを……」と、ふたりの武士はこの悲しい恋物語を聞き終って嘆息した。「この上はなにを隠そう、われわれはその蛇神の女と同国の者でござる」
彼等もやはり西国の或る藩士で、蛇神のことはかねて知っていた。このごろ江戸じゅうをさわがす怪しい甘酒売りの女は、どうしても彼《か》の蛇神に相違あるまいと、江戸屋敷の者もみな鑑定していた。ついては早晩《そうばん》その女が捕われ、なにがし藩の領分内にはそんな奇怪な人種が棲んでいるなどと云い伝えられては、結局当屋敷の外聞にもかかわることであるから、見つけ次第に討ち果たせと重役から若侍一同に対して内密に云い渡されていたので、かれら二人は今夜その使命を果たしたのであった。しかし半七に対して、あからさまにその事情を説明するときは、自然に屋敷の名を出さなければならないのと、もう一つには時と場所が悪い。かれらは吉原へ遊びにゆく途中であった。武士|気質《かたぎ》の強いかれらの屋敷では、遊里に立ち入ることは厳禁されていた。かれらは半七に意地わるく窘《いじ》められて、屋敷の名や自分たちの身分を明かすよりも、むしろ死を択《えら》ぼうと覚悟したのであった。
「これで此の一件も落着《らくぢゃく》しました」と、半七老人はひと息ついた。「こう訳が判ってみると、誰が科人《とがにん》というのでもありません。その時代の習い、武士もこういう事情で斬ったという事であれば、やかましく云うわけにも行きません。わたくしもその事情を察して内分にすることにしましたが、八丁堀の旦那にだけはひと通り報告して置きました。徳三郎はこれぞという科《とが》もないんですが、なにしろこいつが女を引っ張り出して来たのがもとで、こんな騒ぎを仕出来《しでか》したんですから、遠島にもなるべきところを江戸払いで軽く済みました。そうして、もう一度旅へ出るつもりで江戸をはなれますと、神奈川に泊まった晩からまた俄かに大熱を発して、とうとうその宿で藻掻き死にに死んでしまったそうです。とんだ因果で可哀そうなことをしました。それでも徳三郎は本人ですから仕方がないとして、ほかの人達がなぜ祟られたのか判りません。おそらく前にも云ったような理窟で、ふと摺れ違ったりした時に、向うで何か羨ましいとか小癪《こしゃく》にさわるとか思って、じっと見つめると、すぐにこっちへ感じてしまうので、向うでは別に祟るというほどの考えはなくとも、自然にこっちが祟られるような事になってしまったのでしょう。なんだか薄気味の悪い話です。一体その蛇神というのはどういうものかよく判りませんが、わたくしの懇意な者に九州の人がありまして、その人の話によりますと、四国の犬神、九州の蛇神、それは昔から名高いものだそうです。嘘のようなお話ですが、彼《か》の地にはまったくこういう不思議の家筋の者があって、ほかの家では決してその家筋のものと縁組などをしなかったといいます。それに就いてまだいろいろな不思議のお話もありますが、まあこのくらいにして置きましょう。むかしはどこの国にもこういう不思議な伝説がたくさんあったのですが、今日《こんにち》ではそんな噂もまったく絶えてしまいました。学者がたに聞かせたら、それも一種の催眠術だとでも云うかも知れませんね」
底本:「時代推理小説 半七捕物帳(三)」光文社文庫、光文社
1986(昭和61)年5月20日初版1刷発行
1997(平成9)年5月15日11刷発行
入力:網迫
校正:おのしげひこ
2000年10月19日公開
2004年2月29日修正
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