魘《おそ》われたように二人はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。そうして、その声のする方角を一度透かしてみると、今の強い雨でどこの店も大戸を半分ぐらいは閉めてしまったが、そのあいだから流れ出して来る灯のひかりは往来のぬかるみを薄白く照らして、雷門の方から跣足《はだし》でびしゃびしゃあるいて来る女の黒い影がまぼろしのように浮いてみえた。世間にあま酒を売ってあるく者は幾人もある。殊にその声があまり若々しく冴えてひびくので、半七は少し躊躇《ちゅうちょ》したが、ともかくも善八を促《うなが》して路ばたの軒下に身をひそめていると、声の主はだんだんに近寄って来た。かれはあま酒の箱を肩にかけて、びしょ濡れになっているらしかった。ふたりは呼吸《いき》をのんで窺っていると、かれは河内屋のまえに来て吸い付けられたように俄かに立ち停まった。声は若々しいのに似合わず、彼女がたしかに老女であることを知ったときに半七の胸は波を打った。
 かれは先ず河内屋の表をうかがって、更に露路口の方へまわった。半七もそっと軒下をぬけ出して露路の口からのぞいて見ると、彼女は河内屋の水口にたたずんで、しばらく内を窺っているらしかった
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