雷はそれから小一※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《こいっとき》も鳴りつづいたので、善八は口唇《くちびる》の色をかえて縮み上がってしまった。彼は眼の前にならんでいる膳を見ながら、好きな酒の猪口《ちょこ》をも取らなかった。話を仕掛けても碌々に返事もしなかった。
小間物屋の徳三郎とお熊との関係はもう判った。徳三郎は旅商いに出ているあいだに、どこかでお熊と馴染《なじみ》になって、かれを誘い出して江戸へ帰って来たが、差し当りは女の始末に困って、河内屋へ奉公に住み込ませたに相違ない。それと同時に、このあいだ大川端で自分に声をかけようとした若い男は、その徳三郎であったらしくも思われて来た。かれは蒼ざめた顔をして、自分に何事を訴えようとしたのか、半七はいろいろに想像を描いていると、雷の音もだんだんに遠ざかって、善八は生き返ったように元気が出た。
「親分、すまねえ。まずこれでほっ[#「ほっ」に傍点]としやした。また移り換えもしねえうちから酷《ひど》い目に逢いましたよ」
「いい塩梅《あんばい》に小降りになったようだ。早く飯を食ってしまえ」
早々に飯を食ってそこを出ると、夜は五ツ(午後八時)を過ぎているらしかった。雨はもう小降りになっていたが、弱い稲妻はまだ善八をおびやかすように、時々にふたりの傘の上をすべって通った。雷門の方へ爪先を向けた半七は急に立ち停まった。
「おい、もう一度河内屋へ行って見ようじゃねえか。考えると、どうも少し気になることがある。もう雨もやんだから、この傘を返しながらお熊という女はどうしているか訊《き》いてくれ」
二人はまた引っ返して河内屋へ行った。善八だけが内へはいって、お熊はどうしているかと番頭に訊くと、利八はやはり台所にいる筈だと答えた。しかし念のために見て来ましょうと云って、かれは帳場から起《た》って行ったが、やがてあわただしく戻って来て、お熊の姿はどこにも見えないと云った。善八もおどろいて、すぐに表へ飛び出して注進《ちゅうしん》すると、半七は舌打ちした。
「まずいことをしたな。どうもあの女がおかしいと思ったんだ。いっそあの時すぐに引き挙げてしまえばよかった。畜生、どこへ行ったろう」
どっちへ行ったか其の方角が立たないので、二人はぼんやりと門口《かどぐち》に突っ立っていると、どこかで女の声がきこえた。
「甘酒や、あま酒の固練り……」
物に
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