「怪我でもすると詰まらねえ。もういい加減にしましょうよ。伊豆屋の見舞なら、これから家《うち》へ引っ返して握り飯の支度でもさせた方がようござんす。どうせ消《し》めった後でなけりゃあ行かれやしません」
 そういううちにも、なだれ[#「なだれ」に傍点]を打って逃げ迷ってくる半狂乱の人々に押されて揉《も》まれて、二人も幾たびか突き顛《こか》されそうになった。火は大通りまで燃え出して、その熱い息が二人を蒸して来たので、半七ももうあきらめるよりほかはなかった。
「じゃあ、松。もう帰ろうよ」
「帰りましょう」と、松吉もすぐに同意した。「ぐずぐずしていて煙《けむ》にまかれでもした日にゃあ助からねえ」
 ふたりは方向を換えようとして本芝《ほんしば》の方へ振り向く途端に、わっ[#「わっ」に傍点]という叫びがまた俄かに激しくなって、逃げ惑う人なだれが二人を押し倒すように頽《くず》れて来た。
「親分。あぶのうがすぜ」
「てめえもしっかりしろ」
 群集に揉まれて、ふたりは四、五間も押し戻されたかと思うときに、大きい獣《けもの》が自分たちのそばに来ていることを発見した。昼よりも紅い火に照らされて、混雑の中でその正体がすぐに判った。それは大きい熊であった。どこから飛び出して来たのか知らないが、彼もおそらくこの火に追われて、人間と一緒に逃げ場をさがしているのであろう。しかし人間に取っては怖ろしい道連れであるので、猛火に焼かれようとして逃げ惑っている人たちは、更にこの猛獣の出現におびやかされた。むかしの合戦に火牛《かぎゅう》の計略を用いたとかいうことは軍書や軍談で知っているが、いま眼《ま》のあたりに火の粉を浴びた荒熊の哮《たけ》り狂っている姿を見せられた時には、どの人も異常の恐怖に襲われて、悲鳴をあげながら逃げ迷った。
 熊もいたずらに人をおびやかすために出て来たのではない。火を恐るる彼は殆ど死に物狂いの勢いで、どこからか逃げ出して来たらしく、もちろん人間に咬《か》みつく余裕はなかったが、それでも時々起ちあがって、自分のゆく先の邪魔になる人々をその強い手で殴《はた》き倒した。殴かれた者はもう起きることは出来ないで、あとから駈けて来る者にむごたらしく踏みにじられた。火事場の混雑はこの猛獣の出現のために、更に一層の恐怖と混雑とを加えた。
「あぶねえ、あぶねえ」と、半七は誰に注意するともなしに思わず叫んだ。
「あぶねえ、あぶねえ。熊だ、熊だ」と、松吉も一緒にわめいた。
「熊だ、熊だ」と、大勢も逃げながら叫んだ。
 丁度そのときに十七八の若い娘が下女らしい女に手をひかれながら、混雑のなかをくぐりぬけて来て、どううろたえたか恰《あたか》もかの熊のゆく先へ迷って出たので、怒れる熊は人のように突っ立ちあがって、邪魔になる其の娘を引っ掴《つか》もうとした。その危うい一刹那に、ひとりの若い男が横合いから転《ころ》がるように飛び出して来て、いきなり熊の胴腹へ組み付いた。かれは幾らかの心得があるとみえて、自分の頭を熊の月の輪あたりにしっかり押し付けて、両手で熊の前足を掴んでしまった。しかも熊の強い力で振り飛ばされては堪まらない。かれは大地に手ひどく叩き付けられた。
 それは実に一瞬間の出来事であったが、かれが身を楯《たて》にして熊をさえぎっているひまに、娘も下女も危難を逃がれた。そればかりでなく、熊は何者かに真っ向を斬られた。つづいてその急所という月の輪を斬られた。それは二人の武士の仕業《しわざ》で、いずれも刀を抜きひらめかしていた。かれらは熊の斃《たお》れたのを見とどけて、そのまま何処へか立ち退いてしまった。
「このふたりは西国《さいこく》の或る藩中の父子《おやこ》連れだそうです」と、半七老人はここで註を入れた。「後にそのことが聞えたので、殿様から御褒美《ごほうび》が出たといいます。なんという人達だか、その名は伝わっていませんが、永代橋の落ちた時に刀を抜いて振りまわしたのと同じような手柄ですね」

     二

 熊は殺されてしまったが、それをさえぎろうとした彼《か》の若い男はそこに倒れたままで、なかなか起きあがりそうにも見えなかった。打っちゃって置けば、大勢に踏み殺されてしまうかも知れないので、半七はすぐに駈け寄ってかれを抱き起すと、松吉も寄って来て、ともかくも彼を混雑のなかから救い出した。
「親分。どこへ担《かつ》ぎ込みましょう」
 この騒ぎの中でどうすることも出来ないので、かれを松吉に負わせて、半七はそのゆく先を払いながら、どうにかこうにか混雑の火事場からだんだんに遠ざかって、本芝から金杉《かなすぎ》へ出ると、ここらは風上であるから世間もさのみ騒がしくなかった。ここまで来れば大丈夫だと思ったので、二人はそこの自身番に怪我人をかつぎ込んで、まずほっ[#「ほっ」に傍点]と息
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