半七捕物帳
雪達磨
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)所詮《しょせん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二番御|火除《ひよ》け地
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(例)あっ[#「あっ」に傍点]
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一
改めて云うまでもないが、ここに紹介している幾種の探偵ものがたりに、何等かの特色があるとすれば、それは普通の探偵的興味以外に、これらの物語の背景をなしている江戸のおもかげの幾分をうかがい得られるという点にあらねばならない。わたしも注意して、半七老人の談話筆記をなるべく書き誤らないように努めているつもりであるが、その説明がやはり不十分のために、往々にして読者の惑いを惹き起す場合がないとは限らない。
これらの物語について、こういう不審をいだく人のある事をしばしば聴いた。それは岡っ引の半七が自分の縄張りの神田以外に踏み出して働くことである。岡っ引にはめいめいの持ち場がある。それをむやみに踏み越えて、諸方で活動するのは嘘らしいというのである。それは確かにごもっともの理窟で、岡っ引は原則として自分だけの縄張り内を守っているべきである。仲間の義理としても、他の縄張りをあらすのは遠慮しなければならない。しかし他の縄張りを絶対に荒らしてはならないというほどの窮屈な規則も約束もない。今日でも某区内の犯罪者が他区の警察の手にあげられる場合もある。まして江戸の時代に於いて、たがいに功名をあらそう此の種の職業者に対して、絶対にその職務執行範囲を制限するなどは所詮《しょせん》できることではない。半七がどこへ出しゃばっても、それは嘘でないと思って貰いたい。
「これはわたくしの縄張り内ですから、威張って話せますよ」と、半七老人が笑いながら話し出したのは、左の昔の話である。
文久元年の冬には、江戸に一度も雪が降らなかった。冬じゅうに少しも雪を見ないというのは、殆ど前代未聞の奇蹟であるかのように、江戸の人々が不思議がって云いはやしていると、その埋め合わせというのか、あくる年の文久二年の春には、正月の元旦から大雪がふり出して、三ガ日の間ふり通した結果は、八百八町を真っ白に埋めてしまった。
故老の口碑によると、この雪は三尺も積ったと伝えられている。江戸で三尺の雪――それは余ほど割引きをして聞かなければならないが、ともかくも其の雪が正月の二十日頃まで消え残っていたというのから推し量ると、かなりの多量であったことは想像するに難くない。少なくとも江戸に於いては、近年未曾有の大雪であったに相違ない。
それほどの大雪にうずめられている間に、のん気な江戸の人達は、たとい回礼に出ることを怠っても、雪達磨をこしらえることを忘れなかった。諸方の辻々には思い思いの意匠を凝らした雪達磨が、申し合わせたように炭団《たどん》の大きい眼をむいて座禅をくんでいた。ことに今年はその材料が豊富であるので、場所によっては見あげるばかりの大達磨が、雪解け路に行き悩んでいる往来の人々を睥睨《へいげい》しながら坐り込んでいた。
しかもそれらの大小達磨は、いつまでも大江戸のまん中にのさばり返って存在することを許されなかった。七草《ななくさ》も過ぎ、蔵開きの十一日も過ぎてくると、かれらの影もだんだんに薄れて、日あたりの向きによって頭の上から融《と》けて来るのもあった。肩のあたりから頽《くず》れて来るのもあった。腰のぬけたのもあった。こうして惨《みじ》めな、みにくい姿を晒《さら》しながら、黒い眼玉ばかりを形見に残して、かれらの白いかげは大江戸の巷《ちまた》から一つ一つ消えて行った。
その消えてゆく運命を荷《にな》っている雪達磨のうちでも、日かげに陣取っていたものは比較的に長い寿命を保つことが出来た。一ツ橋門外の二番御|火除《ひよ》け地の隅に居据《いすわ》っている雪だるまも、一方に曲木《まがき》家の御用屋敷を折り廻しているので、正月の十五日頃までは満足にその形骸《けいがい》を保っていたが、藪入りも過ぎた十七日には朝から寒さが俄かにゆるんだので、もう堪まらなくなって脆《もろ》くもその形をくずしはじめた。これは高さ六、七尺の大きいものであったが、それがだんだんとくずれ出すと共に、その白いかたまりの底には更にひとりの人間があたかも座禅を組んだような形をしているのが見いだされた。
「や、雪達磨のなかに人間が埋まっていた」
この噂がそれからそれへと拡がって、近所の者どもはこの雪達磨のまわりに集まった。雪のなかに坐っていたのは四十二三の男で、さのみ見苦しからぬ服装《みなり》をしていたが、江戸の人間でないことはすぐに覚《さと》られた。男の死骸《しがい》は辻番から更に近所の自身番に運ばれて、町奉行所から出張した与力同心の検視をうけた。
男のからだには致命傷《ちめいしょう》とも見るべき傷のあとは認められなかった。刃物で傷つけたような跡もなかった。絞め殺したような痕《あと》も見えなかった。寒気のために凍死したのか、あるいは病気のために行き倒れとなったのかと、役人たちの意見はまちまちであったが、普通の凍死か行き倒れであるならば、雪達磨のなかに押し込まれている筈がない。これを発見した者はすぐに辻番か自身番へ届けいづべきである。これほどの大きい雪達磨をわざわざこしらえて、そのなかに死骸を忍ばせておく以上、それには何かの仔細がなければならない。彼の死因には何かの秘密がまつわっているものと、役人たちは最後の断案をくだした。
「それにしても、この雪達磨を誰が作ったのか」
役人たちは当然の順序として、まずその詮議《せんぎ》に取りかかった。町内の者もことごとく吟味をうけたが、誰もこの雪達磨を作ったと白状する者はなかった。かれらの申し立てによると、この雪達磨は三日の夜のうちに何者にか作られたのであるが、前にもいう通り、雪が降れば誰かの手に依って必ず一つや二つの雪達磨は作られるのであるから、この大きい雪達磨が一夜のうちに出現したのをみても、誰も別に怪しむものもなかった。おおかた町内の誰かが拵《こしら》えたのであろうぐらいに思って、なんの注意も払わずに幾日をすごしたのであった。殊にこの近所には武家屋敷が多いので、それは町人がこしらえたのか、武家の若い者どもが作ったのか、それすらも確かには判らなかった。
勿論これほどの雪達磨が自然に湧き出してくる筈はない。必ずその製作者はどこにか潜《ひそ》んでいるには相違ないのであるが、こうなっては誰も名乗って出るものもない。なにかの手がかりを見付け出すために、達磨は無残に突きくずされて其の形骸は滅茶苦茶に破壊されてしまったが、男の死骸以外にはなんの新らしい発見もないらしかった。くずれた雪はその証跡を堙滅《いんめつ》せんとするかのように次第々々に消え失せて、いたずらに泥水となって流れ去った。
「旦那がた、御苦労さまでございます」
ひとりの男が自身番のまえに浅黒い顔を出した。かれは三河町の半七であった。八丁堀同心の三浦真五郎は待ち兼ねたように声をかけた。
「おお、半七、遅いな。貴様の縄張り内で飛んでもないことが始まったぞ」
「それを聞くと、わたくしもびっくりしました。で、もう大抵お調べも届きましたか」
「いや、ちっとも見当が付かない。死骸はここにある。よく見てくれ」
「ごめんください」
半七はすすみ寄って、そこに横たえてある男の死骸をのぞいた。男は手織り縞の綿衣《わたいれ》をきて、鉄色木綿の石持《こくもち》の羽織をかさねていた。履物はどうしてしまったのか、彼は跣足《はだし》であった。半七は丁寧に死骸をあらためたが、やはり何処にも致命傷らしいあとを発見することが出来なかった。
「どうも判りませんね」と、彼も眉をよせた。「まあ、ともかくも其の現場を見とどけてまいりましょう」
役人たちに会釈《えしゃく》して、半七は雪達磨の融けたあとを尋《たず》ねて行った。そこらには雪どけの泥水と、さんざんに踏みあらした下駄の痕とが残っているばかりで、近所の子供や往来の人達がそれを遠巻きにして何かひそひそとささやき合っていた。その雑沓《ざっとう》をかき分けて、半七は足駄《あしだ》を吸いこまれるような泥水のなかへ踏み込んだ。そうして、油断なくその眼を働かせているうちに、彼はまだ幾らか消え残っている雪と泥との間から何物をか発見したらしく、身をかがめてじっと眺めていた。
彼はそれから少時《しばらく》そこらを猟《あさ》っていたが、ほかにはなんにも新らしい発見もなかったらしく、泥によごれた手先をふところの手拭で拭きながら、もとの自身番へ引っ返してゆくと、与力はもう引き揚げて、当番の同心三浦だけが残っていた。
「どうだ、半七。なにか掘り出したか。しっかり頼むぜ。質《たち》の悪い旗本か御家人どもの仕業《しわざ》じゃあねえかな」
「そうですね」と、半七もかんがえていた。「まあ、どうにかなるかも知れません、どうぞ明日《あした》までお待ちください」
「あしたまで……」と、真五郎は笑った。「そう安受け合いが出来るかな」
「まあ、せいぜい働いてみましょう」
「では、くれぐれも頼むぞ」
云い渡して真五郎は帰った。そのあとで、半七は再び死骸の袂《たもと》を丁寧にあらためた。
二
半七はそれから日本橋の馬喰町《ばくろちょう》へ行った。死骸の服装《みなり》からかんがえて、まず馬喰町の宿屋を一応調べてみるのが正当の順序であった。その隣り町《ちょう》に菊一という小間物屋があって、麹町の大通りの菊一と共に、下町《したまち》では有名な老舗《しにせ》として知られていた。半七は顔を識《し》っている番頭をよび出して、この三日の日に南京玉《なんきんだま》を買いに来た田舎の人はなかったかと訊いた。
繁昌の店であるから朝から晩まで客の絶え間はない。したがって南京玉を売ったぐらいのお客を一々記憶していることは困難であったが、幸いに当日が正月早々であるのと、かの大雪が降りつづいたのとで、殆ど商売は休み同様であったために、菊一の番頭はその日に買物に来たたった三人の客をよく記憶していた。その二人は近所の娘で、他のひとりは馬喰町の信濃屋という宿屋に泊まっている客であったと彼は説明した。
「名は知りませんが、去年の暮にも一度来て、村の土産《みやげ》にするのだと云って油や元結《もっとい》なぞを買って行ったことがあります。三日の朝にも雪の降るのにやって来て、どうしてもあしたは発《た》たなければならないから、近所の子供たちの土産にするのだと云って、南京玉を二百文買って行きました」
その田舎の人の人相や年頃や服装などをくわしく聞きただして、半七は更に信濃屋に足をむけた。信濃屋の番頭は宿帳をしらべて、その客は上州太田の在《ざい》の百姓甚右衛門四十二歳で、去年の暮の二十四日から逗留《とうりゅう》していた。どうしても年内には帰らなければならないと云っていたが、それがだんだんに延びてとうとうここで年を越すことになった。三ガ日がすんで、四日の日は是非たつと云っていたが、その前日の午《ひる》すぎに近所へ買物にゆくと云って出たぎり帰ってこないので、宿の方でも心配している。尤《もっと》も去年じゅうの宿賃は大晦日《おおみそか》の晩に綺麗に勘定をすませてあるので、その後の分は知れたものではあるが、ともかくも無断でどこへか形を隠してしまうのはおかしいと、帳場でも毎日その噂をしているとのことであった。
「じゃあ、気の毒だが神田まで来てくれ。なに、決して迷惑はかけねえから」
迷惑そうな顔をしている番頭を引っ張り出して、半七は彼を神田の自身番へ連れて行った。番頭はその死骸を見せられて、たしかにそれは自分の宿に三日まで泊まっていた甚右衛門という田舎客に相違ないと申し立てた。これで先ず死人の身許《みもと》は判ったが、かれが何者に連れ出されて、どうして殺されたかということは些《ち》っとも想像が付かなかった。
半七が菊一へ詮議に行ったのは、雪達磨のとけている現場で南京玉を三つ四つ発見し
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