りしたもんですから、とうとうお目に止まったような次第で、なんとも申し訳がございません」
お豊が井戸へ飛び込もうとした仔細もそれでわかった。
半七が大抵想像していた通り、かれは亭主の悪事を知っていたのであった。
その明くる日の夕方、長作は藤代の屋敷へはいろうとするところを、かねて網を張っていた仙吉に召捕られた。忠三郎を投げ倒したのは周道のいたずらで、長作はなんにも係り合いのないことであった。彼はその晩博奕に負けてぼんやり帰ってくると、雪まじりの雨のなかに一人の男が倒れているのを見つけたので、初めは介抱してやるつもりで立ち寄ったが、かれの胴巻の重そうなのを知って、長作は急に気が変った。まず胴巻だけを奪い取って行きかけたが、毒食らわば皿までという料簡になって、彼は更に忠三郎が大事そうに抱えている風呂敷包みを奪った。羽織まで剥ぎ取った。しかも悪銭は身につかないで、百両の金も酒と女と博奕でみんなはたいてしまった。
「舅や女房はなんにも知らないことでございます。どうぞ御慈悲をねがいます」と、彼は云った。
実際なんにも知らないと云えないのであるが、さすがに上《かみ》の慈悲であった。峰蔵もお豊も叱りおくだけで赦された。しかし長作の罪科は今の人が想像する以上に重いものであった。かれは路に倒れている人を介抱しないばかりか、あまつさえ其の所持品を奪い取るなど罪科重々であるというので、引き廻しのうえ獄門ときまって、かれの首は小塚ッ原に晒《さら》された。
寺社奉行の命令で、松円寺の化け銀杏は往来に差し出ている枝をみな伐《き》り払われてしまった。
これだけの話を聴いても、わたしにはまだ判らないことがあった。
「お豊が古道具屋へ売った探幽の鬼は贋物《にせもの》だったのですね。そうすると、忠三郎という番頭は稲川の屋敷から贋物を受け取って来たのでしょうか」
「そうです、そうです」と、半七老人はうなずいた。「稲川の屋敷でも初めから贋物をつかませるほどの悪気はなかったのですが、五百両を半分に値切られたので、苦しまぎれに贋物を河内屋へ渡して、ほん物の方を又ほかへ売ろうと企《たくら》んだのです」
「どうしてそんな贋物が拵えてあったのでしょう。初めから企んだことでもないのに……」
「それはこういうわけです。探幽のほん物は昔から稲川の家に伝わっていたんですが、なんでも先代の頃にどこかでその贋物を見つけたんだそうです。贋物とはいえ、それがあんまりよく出来ているので、こんなものが世間に伝わると、どっちが真物だか判らなくなって、自分の家の宝物に瑕《きず》がつくというので、贋物を承知で買い取って、再び世間へ出さないように、屋敷の蔵のなかへしまい込んで置いたのです。昔はよくこんなことがありました。それをここで持ち出して、今もいう通り、贋物を河内屋の番頭に渡してやって、ほん物の方を芝の三島屋へ四百両に売ったんです。そういういきさつ[#「いきさつ」に傍点]がありますから、稲川の用人は何とか理窟をつけて、三島屋へ一緒に行くことを拒《こば》んだわけなんです。そこで、この一件が表向きになると、稲川の用人は先ずわたくしのところへ飛んで来ました。勿論、河内屋の方へも泣きを入れて、万事は主人の知らないこと、すべて用人が一存で計らったのだという申し訳で、どうにかこうにか内済になりました。金は当然返さなければなりませんから、稲川の屋敷から二百五十両を河内屋へ返し、贋物の鬼を取り戻したんですが、稲川の主人もちょっと変った人で、畢竟《ひっきょう》こんなものを残して置くから心得ちがいや間違いが起るのだと云って、節分《せつぶん》の晩にその贋物の鬼を焼き捨ててしまったそうです。節分の晩が面白いじゃありませんか。
河内屋からわたくしのところへ礼に来ましたが、とりわけて番頭の忠三郎はひどくそれを恩にきて、その後もたびたびわたくしを訪ねてくれました。それが今帰って行った水原さんで、維新後に河内屋は商売換えをしてしまいましたが、水原さんは横浜へ行って売込み商をはじめて、それがとんとん拍子にあたって、すっかり盛大になったんですが、それでも昔のことを忘れないで、わたくしのような者とも相変らず附き合っていてくれます。実はきょうも、例の化け銀杏の一件を話して帰ったんですよ」
底本:「時代推理小説 半七捕物帳(二)」光文社文庫、光文社
1986(昭和61)年3月20日初版1刷発行
※「糴《せり》」の「入」の部分を、底本は「ハ」のようにつくっているが、ここでは「糴」として入力した。
※事件の発端となる日付を、底本は「文久元年十二月二十四日の出来事である。」としているが、本作品中の後の記述に照らせば、事件は十一月の末に起こっていなければ辻褄が合わないと思われる。
入力:tatsuki
校正:山本奈津恵
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