争っている。舅《しゅうと》の峰蔵も心配して、いっそ娘を取り戻そうかと云っているが、もともと好いて夫婦になった仲なので、お豊がどうしても承知しない。峰蔵は堅気《かたぎ》な職人であるのに、とんだ婿を取って気の毒だと亭主は話した。それを聴いてしまって、半七は何げなくうなずいた。
「そりゃあまったく気の毒だね。なぜ又そんなやくざな奴に娘をやったんだろう」
「なに、長作もはじめは堅い男だったんですが、ふいと魔が魅《さ》して此の頃はすっかり道楽者になってしまったんです」
「その長作の家はどこだね」
「すぐ向う裏です。露地をはいって二軒目です」
半七はその足で向う裏の長作の家をたずねると、女房のお豊が内から出て来た。お豊はようよう十八九で、まだ娘らしい女振りであったが、さすがにもう眉を剃《そ》っていた。かれの白い顔はいたましく蒼ざめていた。
「長さんはお家《うち》ですかえ」
「今ちょいと出ましたが……。どちらから」
「わたしは松円寺の近所から来ましたが……」
「また誘い出しに来たんですか」と、お豊はひたいを皺《しわ》めた。「もう止してくださいよ」
「なぜです」
「なぜって……。おまえさんは藤代《ふじしろ》様の御屋敷へ行くんでしょう」
松円寺のそばには藤代大二郎という旗本屋敷のあることを半七は知っていた。その屋敷のうちに賭場《とば》の開かれることは、お豊が今の口ぶりで大抵推量された。
「お察しの通り、藤代の御屋敷へ行くんですが、まだ誰にも馴染《なじみ》がないもんですから、こちらの大哥《あにい》に連れて行って貰わなければ……」
「いけませんよ。なんのかのと名をつけて誘い出しに来ちゃあ……。誰がなんと云っても、内の人はもうそんなところへはやりませんよ」
「長さんはほんとうに留守なんですかえ」
「嘘だと思うなら家じゅうをあらためて御覧なさい。きょうは用達しに出たんですよ」
「そうですか」と、半七は框《かまち》に悠々と腰をおろした。「おかみさん。済みませんが煙草の火を貸しておくんなさい」
「内の人は留守なんですよ」と、お豊はじれったそうに云った。
「留守でもいいんです。実はね、わたしの知っている本郷の者が、このあいだの晩に森川宿を通ると、化け銀杏の下に女の幽霊の立っているのを見たんです。野郎、臆病なもんだから碌々に正体も見とどけずに逃げてしまったんですよ。いや、いくじのねえ野郎で……。江戸のまん中に化け物なんぞのいる筈がねえ。わたしなら直ぐに取っ捉まえてその化けの皮を剥いでやるものを、ほんとうに惜しいことをしましたよ。ははははは」
お豊は黙って聴いていた。
「勿論わたしが見た訳じゃあねえんだから、間違ったら、ごめんなさいよ」と、半七はお豊の顔をのぞきながら云った。「ねえ、おかみさん。その幽霊というのはお前さんじゃありませんでしたかえ」
「冗談ばっかり」と、お豊はさびしく笑っていた。「どうせわたしのようなものはお化けとしか見えませんからね」
「いや、冗談でねえ、ほんとうのことだ。その幽霊は藤代の屋敷へ自分の亭主を迎えに行ったんだろうと思う。惚れた亭主は博奕《ばくち》ばかり打っている。それが因《もと》で父っさんの機嫌が悪い。両方のなかに挟まって苦労するのは、可哀そうにその幽霊ばかりだ。ねえ、おかみさん。その幽霊が真っ蒼な顔をしているのも無理はねえ。かんがえると実に可哀そうだ。わたしも察していますよ」
お豊は急にうつむいて、前垂れの端《はし》をひねっていたが、濃い睫毛《まつげ》のうるんでいるらしいのが半七の眼についた。
「そりゃあほんとうに察していますよ」と、半七はしみじみ云い出した。「亭主は道楽をする。節季師走《せっきしわす》にはなる。幽霊だって気が気じゃあねえ。家のものだって質《しち》に置こうし、よそから預かっている物だって古道具屋にも売ろうじゃあねえか。眼と鼻のあいだの道具屋へ鬼の掛地を売るなんかは、あんまり浅はかのようにも思われるが、そこが女の幽霊だ。無理もねえ。それに……」
話を半分聞きかけて、お豊は衝《つ》っと起ちあがったかと思うと、彼女は格子《こうし》にならんだ台所から跣足《はだし》で飛び出して、井戸端の方へ駈けて行こうとするのを、半七は追い掛けてうしろから抱きすくめた。
「いけねえ。いけねえ。幽霊が死んだら蘇生《いきかえ》ってしまうばかりだ。まあ、騒いじゃあいけねえ。おめえの為にならねえ」
泣き狂うお豊を無理に引き摺って、半七は再び家のなかへ連れ込んだ。
「親分さん。済みません。どうぞ殺して……殺してください」と、お豊はそこに泣き伏した。彼女は半七の身分を覚ったらしかった。
「もう判ったかね」と、半七はうなずいた。「あの掛地を持って来たのは長作だろう。ほかには何も持って来なかったかえ。羽織を持って来やしなかったか」
「持ってまい
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