端である。氷のような風が梢からどっと吹きおろして来たかと思うと、かれのすくめた襟首を引っ掴んで、塀ぎわの小さい溝《どぶ》のふちへ手ひどく投げ付けた者があった。忠三郎はそれぎりで気を失ってしまった。
 風は再びどっと吹きすぎると、化け銀杏は大きい身体《からだ》をゆすって笑うようにざわざわと鳴った。

     二

「もし、おまえさん。どうしなすった。もし、もし……」
 呼び活《い》けられて忠三郎は初めて眼をあくと、提灯をさげた男が彼のそばに立っていた。男は下谷《したや》の峰蔵という大工で、化け銀杏の下に倒れている忠三郎を発見したのであった。
「ありがとうございます」
 云いながら懐中《ふところ》へ手をやると、主人から別に渡された百両の金は胴巻ぐるみ紛失していた。驚いて見廻すと、抱えていた一軸も風呂敷と共に消えていた。自分の羽織も剥《は》がれていた。忠三郎は声をあげて泣き出した。
 峰蔵は親切な男で、駒込《こまごめ》まで行かなければならない自分の用を打っちゃって置いて、泥だらけの忠三郎を介抱して、ともかくも本郷の通りまで連れて行って、自分の知っている駕籠屋にたのんで彼を河内屋まで送らせてやった。河内屋でも忠三郎の遅いのを心配して、迎いの者でも出そうかといっているところへ、半分は魂のぬけたような忠三郎が駕籠に送られて帰って来たので、その騒ぎは大きくなった。勿論捨てて置くべきことではないので、稲川の屋敷へも一応ことわった上で、その顛末《てんまつ》を町奉行所へ訴え出た。
 なにぶんにも暗やみであるのと、投げられるとすぐ気を失ってしまったのとで、忠三郎はなんにも心当りがなかった。しかしそれが化け銀杏の悪戯《いたずら》でないことは判り切っていた。彼を引っ掴んだのは化け銀杏であるとしても、かれの所持品や羽織までも奪いとって立ち去った者はほかにあるに相違ない。本郷の山城屋金平という岡っ引がその探索を云い付けられたが、金平はあいにく病気で寝ているので、その役割が隣りの縄張りへまわって、神田の半七が引き受けることになった。
「稲川の屋敷の奴が怪しい」
 半七は先ずこう睨《にら》んだ。忠三郎を酔わして帰して、あとから尾《つ》けて来てその一軸を取り返してゆく。悪い旗本にはそんな手段をめぐらす奴がいないともいえない。そこで手を廻してだんだん探ってみると、稲川の主人は行状のいい人で、今度大切の
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