蓋《ふた》がしてあれば判らない。そのお手際《てぎわ》じゃあ、ここにいる人間もどんなものだか判りますまいね」
「いや、それで判った」と、式部は又にわかに声をやわらげた。「それについて、こなたに少しお話し申したいことがある。お手間は取らせぬ。奥へちょっとお出でくださらぬか」
「折角だが御免を蒙りましょう。こっちが奥へ行くよりも、そっちが表へ出て貰いましょう」
「そこがお話だ。ともかくも奥へ……。どうもここではお話が出来にくい」と、式部はしきりに誘うように云った。
「ええ、うるせえ。出ろと云ったら素直《すなお》に早く出て貰おう」と、半七は小膝を立てながら云った。「おめえばかりじゃあねえ。そこにいる行者様もその巫子《みこ》も、みんな一緒に出てくれ」
「どうしても出ろと云われるか」と、式部は少し身がまえしながら云った。
「くどいな。早く出ろ、早く立て」と、半七もふところの十手を探った。
この場の穏かならない形勢が自然に洩れて、玄関に待ちあわせている人々もざわめいた。中には起ちあがってそっとのぞく者もあった。それをかき分けて善八はつかつかと神前へ踏み込んで来た。
「親分、どうしますえ。お縄ですか」
「どうも素直に行きそうもねえ。面倒でも畳のほこりを立てろ」と、半七は云った。
その声の終らないうちに、式部は腰にさしている一刀をそこへ投げ出して起ったかと思うと、奥の襖を蹴放すようにして逃げ込んだので、半七はすぐに追って行った。こういう徒《やから》の習い、得物《えもの》をわざと投げ出したのは、こっちに油断させる為であろうと、半七は用心しながら追ってゆくと、式部は奥の八畳の間へ逃げ込んで、そこに据えてある唐櫃《からびつ》の蓋をあけようとするところを、半七はうしろからその腕を取った。取られた腕を振り払って、式部はふところに忍ばせてある匕首《あいくち》をぬいた。用心深い半七は彼が必死の切っ先に空《くう》を突かせて、刃物を十手でたたき落した。
式部が唐櫃のまえで引っ縛《くく》られたときに、行者も善八の縄にかかっていた。小娘の藤江は勿論なんの抵抗もなしに引っ立てられた。裏口から廻った多吉は二人の女中に案内させて、戸棚から床下まで穿鑿《せんさく》したが、ほかには誰もひそんでいるらしい形跡もなかった。
その日の夕方に、久次郎の死骸が品川沖に漂っているのを漁師船が発見した。
女の行者は公家の娘ではなかった。勿論、冷泉家の息女などではなかった。しかし彼女の母は公家に奉公したもので、おなじ公家侍のなにがしと夫婦になって、お万とお千という娘ふたりを生んだのだが、六年ほど前に夫婦は流行病《はやりやまい》で殆ど同時に死んだ。たよりのない娘たちは父の朋輩の式部に引き取られたが、その式部もなにかの不埒があって屋敷を放逐されることになったので、かれは二人の美しい娘を連れて、今後のたつきを求めるために関東へ下《くだ》って来た。その途中でふと思い付いたのが祈祷所の仕事であった。
式部は加茂の社《やしろ》に知己《しるべ》の者があったので、祈祷や祓《はら》いのことなどを少しは見聞きしていた。もとの主人が易学を心得ていたので、その道のことも少しは聞きかじっていた。それらを世渡りの手段として、かれは江戸のまん中に祈祷所の看板をかけたのであるが、自分では諸人の信仰を得がたいと思ったので、姉娘の美しいお万を行者に仕立てて、自分がうしろから巧みにそれを操《あやつ》ってゆくことにした。まだその上にも世間の信仰を増すことをかんがえて、かれは堂上方の消息に通じているのを幸いに、都合よく云いこしらえてお万を冷泉の息女であると吹聴《ふいちょう》した。式部自身はその家来と名乗っていた。妹は腰元の藤江に化けていた。この大胆な計画が予想以上に成功して、迷信の強い江戸の人々を見事に瞞着しているうちに、ここに一つの障碍《しょうがい》が起った。それは炭団伊勢屋の息子が母の祈祷をたのみに来たことであった。
母の祈祷だけで済めば、何事もなかったのであるが、伊勢屋が裕福であることを知っている式部は、更にお万に入れ知恵をして息子の久次郎をも釣り寄せることを巧らんだ。久次郎は果たして釣り寄せられて来たが、それが単に信仰ばかりではないらしく見えた。式部はそれを薄々承知のうえで、いろいろの口実を設けて少なからぬ奉納金を幾たびも巻きあげた。
それで済めばよかったのである。式部に取ってはむしろ思う壺にはまったのであったが、だんだん時日を経るあいだに、お万の魂もいつか権十郎息子の方へ引き寄せられてゆくらしく見られて来たので、それに気がついた式部は今更にあわてた。それにはまた二様の意味があった。第一には商売の妨げになることで、尊い行者がその信者と恋に落ちたなどということが世間に洩れた暁には、たちまちその信用を落すのは判
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