た。それは当家の伜久次郎どのがお姫様に対して無礼を働いたというのであった。久次郎どのには怪しい獣の悪霊《あくりょう》が付きまとっているので、それを祓《はら》うために毎夜秘密の祈祷を行なっていることは、おふくろ殿もかねて御存じの筈である。本来ならば一七日の祈祷で当然その禍いを祓い得べきであるのに、今度の祈祷に限って不思議にその験《げん》がみえない。更に二七日、三七日、四七日と祈りつづけても、やはりその験のあらわれないのは甚だ不思議に思っていたところが、今になってその仔細が初めて判った。当人の久次郎どのが汚れた心を持っていたからである。久次郎どのは毎夜かかさず通って来るのは、まことの心からの信心ではない。実はお姫様に懸想《けそう》していたのである。現にゆうべの祈祷の休息のあいだに、彼はお姫様をとらえて猥《みだ》らなことを云い出した。実に言語道断の不埒《ふらち》である。
お姫様は勿論それを取り合われる筈はなかった。持っていた幣束《へいそく》で彼の面を一つ打ったままで、無言で奥の間へはいってしまわれたが、それを知った拙者はすぐにその場へ踏み込んで、久次郎の不埒をきびしく叱って、今後決して、参ることは相成らぬと襟髪をつかんで表へ突き出してしまった。久次郎どのは何と云っているか知らないが、事実は全くこの通りであって、お姫様を涜《けが》そうとするのは神を涜そうとするも同じことである。久次郎どの如き言語道断の不埒者はもとより相手にはならない。改めておふくろ殿にお掛け合いをいたすために、こんにち罷《まか》り越した次第であると、式部は形を正しゅうしておごそかに云った。
思いもよらない掛け合いをうけて、お豊は魂が消えるほどにびっくりした。殊に自分は飽くまでもかの尊い行者を信仰しているだけに、わが子の不埒が重々面目なかった。面目ないというよりも、かれは実におそろしかった。彼女は畳に額《ひたい》をうずめて、恐れかしこんでわが子の罪を幾重《いくえ》にも詫びた。かれは当然自分ら親子のうえに落ちかかって来るべき神の御罰をのがれるために、あらためて謝罪の祈祷を嘆願した。祈祷料の二百金は式部のまえに差し出された。式部は容易にそれに手を触れなかったが、結局お姫様の思召しをうけたまわるまで、ともかくもお預かり申して置くということになって、その二百両を受け取って帰った。
式部の帰ったあとで、お豊はすぐ
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