半七捕物帳
狐と僧
岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)谷中《やなか》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)年|経《ふ》る狐に相違なかった
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     一

「これも狐の話ですよ。しかし、これはわたくしが自身に手がけた事件です」と、半七老人は笑った。

 嘉永二年の秋である。江戸の谷中《やなか》の時光寺という古い寺で不思議の噂が伝えられた。それはその寺の住職の英善というのが、いつの間にか狐になっていたというのである。実に途方もない奇怪な出来事ではあるが、寺の方からその届け出があった以上、寺社奉行も単にばかばかしいといって捨てて置くわけにも行かなかった。
 時光寺はあまり大きい寺ではないが、由緒のある寺で、その寺格も低くなかった。住職の英善は今年四十一歳で、七年ほど前から先住のあとを受けついで、これまでに変った噂もきこえなかった。ほかに善了という二十一歳の納所《なっしょ》と、英俊という十三歳の小坊主と、伴助という五十五歳の寺男と、あわせて三人がこの寺内に住んでいた。伴助は耳の遠い男であったが、正直者として住職に可愛がられていた。
 こうして何事もなく過ぎているうちに、思いもよらない事件が出来《しゅったい》して、檀家は勿論、世間の人々をもおどろかしたのである。事件の起る前夜、住職の英善は、根岸の伊賀屋という道具屋の仏事にまねかれて、小坊主の英俊を連れて出たが、四ツ(午後十時)少し前に英俊だけが帰って来た。師匠は途中でこれからほかへ廻るから、おまえは先へ帰れといったので、小坊主はそのまま別れて来たのであった。
 夜なかになっても住職は戻らないので、寺でも心配した。伴助は提灯を持って幾たびか途中まで迎いに出て行ったが、英善の姿はみえなかった。こうして不安の一夜を送った後、この寺から二町ほど距《はな》れた無総寺という寺のまえの大きい溝《どぶ》のなかに、英善によく似た者のすがたが発見された。それはあくる朝のことで、いつも早起きの無総寺の寺男が見つけ出したのであるが、溝にはまり込んで死んでいたのは、人間ではなかった。それは法衣《ころも》や袈裟《けさ》をつけている狐であった。寺男はびっくりして、ほかの人々にも報告したので、たちまちこのあたりの大騒ぎとなった。
 袈裟や法衣をつけている者の正体はたしかに年|経《ふ》る狐に相違なかった。死体の傍には数珠《じゅず》も落ちていた。小さい折本の観音経も落ちていた。履物はどこにも見えなかったが、その袈裟と法衣と、数珠と経文《きょうもん》と、それらの品々がことごとく時光寺の住職の持ち物に符合するばかりか、その経文の折本のうちには時光寺と明らかに書いてあるので、誰もそれをうたがうことは出来なかった。殊にその本人の英善がゆうべから戻って来ないのであるから、諸人はいよいよこの奇怪な出来事を信ずるよりほかはなかった。唯ここに残された問題は、英善がゆうべこの狐にたぶらかされて、その衣類や持ち物を奪われたのか、或いはその以前から本人の正体はどこかへ消えてしまって、狐が住職になり澄ましていたのかということで、その疑問は容易に解決されなかった。
 無総寺の寺男の話によると、夜なかに門前で頻《しき》りに犬の吠える声を聴いたというのである。英善に化けた狐は犬の群れに追いつめられて、この溝のなかへはまり込んで死んだのであろうと彼は云った。ほかの人々もそんなことであろうと思った。
「なるほど、そういえば此の頃は、うちの御住持さまは大変に犬を嫌っていなすった」と、時光寺の納所《なっしょ》も云った。
 以前はそうでもなかったが、この一、二ヵ月まえから住職の英善がひどく犬を嫌うようになったことは、納所の善了も寺男の伴助も認めていた。これらの事実を綜合してかんがえると、人間の英善はこの夏の末頃から消えてなくなって、狐の英善が住職になり代っていたらしい。伯蔵主《はくぞうす》の狐や茂林寺《もりんじ》の狸のむかし話なども思いあわされて、諸人も奇異の感にうたれながら、とにもかくにも一ヵ寺の住職の身のうえにこういう椿事が出来《しゅったい》したのであるから、単に不思議がってばかりはいられなかった。時光寺からは有りのままに届け出て、寺社奉行はその詮索《せんさく》に取りかかったのであった。
 時光寺の納所も小坊主も寺男も、みな厳重に吟味された。奇怪な死体をはじめて発見したという無総寺の寺男も勿論取り調べられた。しかも彼等の口から何の手がかりを聴き出すことも出来なかった。住職は近頃犬を嫌うようになったという以外には、時光寺の者共も別に思い当ることはないと申し立てた。もしや住職の死骸を発見することもあろうかと、時光寺の床下や物置や、庭の大木の根もとなどを掘り返してみたが、死骸はおろか、それかと思われ
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