をしましたよ」と女房も鼻をつまらせた。「つまりあの娘《こ》の不運なんですよ。狐のことは嘘かほんとうか判りません。なにをいうにも相手が小女郎さんですから、どんなことをしないとも限りませんけれど……」
いずれにしても、おこよの死は悼《いた》ましいものであったと、女房はかれの不幸にひどく同情していた。そして、更にこんなことを付け加えて話した。おこよを嫁に貰おうとしたのは、となり村の平左衛門という百姓の家で、かれの夫となるべき平太郎という伜は小女郎狐の噂を絶対に否認して、是非ともおこよを自分の妻にしたいと云い張ったが、父の平左衛門は首をかしげた。むかし気質《かたぎ》の親類どもからも故障が出た。たといそれが嘘であろうとも、ほんとうであろうとも、仮りにもそんな忌《いま》わしい噂を立てられた女を迂濶《うかつ》に引き入れるということは世間の手前もある。ひいては家名にも疵がつく。嫁はあの女に限ったことではない。そういう多数の議論に圧し伏せられて、平太郎はよんどころなしに諦めてしまったが、内心はなかなか諦め切れないでいるところへ、おこよの水死の噂が伝わったので、それは芒を取りに行った為のあやまちではない、その死因はたしかに縁組の破談にあると彼は一途《いちず》に認定した。その以来、彼はなんだか物狂わしいような有様となって、ときどきには取り留めもないことを口走るので、家内の者も心配している。現に二、三日まえにも鎌を持ち出して、これから小女郎狐を退治にゆくと狂いまわるのを、大勢がようように抱き止めたというのであった。
「そうかえ」と、長次郎はまた溜息をついた。「そりゃあ困ったものだ。かさねがさねの災難だね」
「やっぱり小女郎さんが祟っているのかも知れません」と、女房は怖ろしそうにささやいた。「そればかりじゃありません。親分も御承知でしょうが、お庄屋さんの猪番小屋で五人も一緒に死ぬという、あれも唯事じゃありますまい」
云うときに店の前に餌を拾っている雀がおどろいたようにぱっ[#「ぱっ」に傍点]と起ったので、長次郎はふとそっちに眼をやると、大きい榎のかげから一人の男が忍ぶように出て行った。長次郎はそのうしろ影を頤《あご》で指しながら小声で女房に訊いた。
「あの男は誰だえ。村の者だろう」
「善吉さんのようです」と、女房は伸びあがりながら云った。「このあいだ、猪番小屋で死んだ佐兵衛さんの兄さんですよ」
「むむ、そうか」
長次郎はうなずきながらそっと店の先に出て、再び彼のうしろ姿を見送ると、善吉はなにか思案に耽っているらしく、俯向き勝ちにぼんやりと歩いて行った。うしろ姿から想像すると、かれはまだ二十四五の若い者であるらしかった。寺男の銀蔵おやじの話によると、かれは弟の横死を狐の仕業と信じていないという。――その話を長次郎は今更のように思い出した。
「おかみさん。どうもいつまでもおしゃべりしてしまった。だが、まあ気をつけねえ。お前のような年増盛りは、いつ小女郎に魅《み》こまれるかも知れねえ」
「ほほ、忌《いや》でございますよ。毎度ありがとうございました」
茶代を置いて、長次郎はそこを出た。この村にはほかに知っている家もないので、彼はもう一度代官の屋敷へ引っ返して、宮坂のところで午飯を食わせて貰って、それから遠くもない隣り村へ出かけて行った。平左衛門の家の近所へ行って、よそながら平太郎の噂を聞くと、彼がこのごろ少し物狂わしくなったのは事実で、この月初めから二、三度も家を飛び出したことがある。世間の聞えをはばかって親達はそれを秘密にしているが、自分の妻にと思い込んだ女が突然に悲惨の死を遂げると同時に、かれも取り乱して本性を失ったのは、近所でもみな知っているとのことであった。平太郎は今年|二十歳《はたち》で、ふだんがおとなしい男であるだけに、一時に赫《かっ》と取り詰めたのであろうという者もあったが、大体に於いてはやはり彼《か》の小女郎の仕業という説が勝を占めていた。小女郎さんが魅《み》こんでいる女を横取りして自分の女房にしようとしたので、その祟りで女は執り殺された。平太郎にも狐が乗り憑《うつ》って、あんな乱心の体たらくになったのであると、顔をしかめてささやくものが多かった。
乱心して時々に家を飛び出す男――すでに乱心している以上は何事と仕出《しで》かすか判らない。長次郎は更に平左衛門の家の作男《さくおとこ》をそっと呼び出して、主人の伜はこの十三夜の夜ふけに寝床をぬけ出して村境の川縁《かわべり》にさまよっていたのを、ようように見つけ出して連れ戻ったという事実を新らしく聞き出した。その家は成程ここらでも相当の旧家であるらしく、古い門の内には広い空地《あきち》があって、大きい柿の実の一面に色づいているのも何となく富裕にみえた。作男と話しながら、長次郎はときどき門の内を覗いていると、ひとりの若い男が何処からか不意にあらわれた。かれは跳りあがって長次郎の眼の前に突っ立った。
「さあ、一緒に来い。小女郎めを退治に行くから」
それが平太郎であることを長次郎はすぐに覚った。彼はつづいて叫んだ。
「小女郎ばかりでねえ。佐兵衛も六右衛門もみな殺してやる。あいつらは狐の廻し者だ。あと方もねえことを触れて歩きゃあがって、おれの女房を狐の餌食《えじき》にしてしまやがった」
長次郎は笑いながら彼の蒼ざめた顔をじっと眺めていた。
四
その晩、新石下の村でまた一つの事件が起った。かの善吉の妹のお徳が兄の寝酒を買いに出た帰り途に、田圃路《たんぼみち》で何者にか傷つけられた。善吉と佐兵衛とお徳とは三人の兄妹《きょうだい》で、かれはまだ十五の小娘であった。近ごろ中《なか》の兄を失って心さびしい彼女は、宵闇の田圃路を急ぎ足にたどって来ると、暗いなかから何者かが獣のように飛び出して来て、だしぬけに彼女の顔を掻きむしったので、お徳はきゃっ[#「きゃっ」に傍点]と悲鳴をあげて、手に持っていた徳利を捨てて逃げ出した。ようように家へころげ込んで母や兄に見て貰うと、かれは頬や頸筋をめちゃくちゃに引っ掻かれて、その爪あとには、生血《なまち》がにじみ出していた。
「狐の仕業《しわざ》だ。佐兵衛を殺したばかりでは気が済まねえで、今度は妹に祟ったのに相違ねえ」
こんな噂が又すぐに村じゅうにひろがった。これも寝酒を買いに出た高巌寺の銀蔵は、途中でその噂を聞いて急に薄気味悪くなって、どうしようかと路ばたに突っ立って思案していると、不意にその肩を叩く者があった。ぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として透かしてみると、頬かむりをした長次郎が暗い蔭に忍んでいた。
「おお、親分。お聞きでしたか、小女郎がまた何か悪さをしたそうで……」
「そんな話だ」と、長次郎はうなずいた。「ときにお前に無心がある。今夜はお前のところへ一と晩泊めてくれねえか」
耳に口を寄せてささやくと、銀蔵も幾たびかうなずいた。
「わかりました、判りました。さあ、すぐにお出でなせえ」
「お前、どっかへ行くんじゃあねえか」
「寝酒を一合買いに行こうと思ったんだが、まあ止《よ》しだ」
「酒はおれが買う。遠慮なく行って来ねえ」
「だが、まあ止そうよ」
「じいさんも狐が怖いか」と、長次郎は笑った。
「あんまり心持がよくねえ。おまけに今夜は闇だから」
銀蔵は長次郎と一緒に引っ返した。庫裏《くり》に隣った彼の狭い部屋に案内されて、長次郎は炉の前でしばらく世間話などをしていたが、やがて四ツ(午後十時)に近いころに、彼は再び手拭に顔をつつんで暗い墓場の奥へ忍んで行った。宵闇空には細かな糠星《ぬかぼし》が一面にかがやいて、そこらの草には夜露が深くおりていた。大きい石塔のかげに這いかがんで、長次郎はしずかに夜のふけるのを待っていると、そより[#「そより」に傍点]とも風の吹かない夜ではあったが、秋ももう半ばに近いこの頃の夜寒が身にしみて、鳴き弱った※[#「虫+車」、第3水準1−91−55]の声が悲しくきこえた。
半時あまりも息を殺していると、うしろの小さい丘を越えて、湿《しめ》った落葉を踏んで来るような足音がかさこそ[#「かさこそ」に傍点]と微かにひびいた。長次郎は耳を地につけて聞き澄ましていると、その小さい足音はだんだんにこちらへ近づいて、墓場の垣根をくぐって来るらしかった。垣根はほんの型ばかりに粗《あら》く結ってあるので、誰でも自由にくぐり込むことを長次郎は知っていた。星のひかりに透かしてみると、黒い小さい影は犬のように垣根をくぐって、一つの石塔の前に近寄ったかと思うと、その石塔の暗いかげからも又ひとつの黒い大きい影が突然あらわれた。
大きい影は飛びかかって、小さい影を捻じ伏せようとするらしかった。小さい影は振り放そうと争っているらしく、二つの影は無言で暗いなかに縺《もつ》れ合っていた。やがて小さい影が組み伏せられたらしいのを見たときに、長次郎も自分の隠れ家から飛び出して、まずその大きい影を捕えようとすると、彼はそこにある卒堵婆を引きぬいて滅多なぐりに打ち払った。その隙をうかがって小さい影は掻いくぐって逃げようとしたが、大きい影はその掴んだ手を容易にゆるめなかった。長次郎に卒堵婆を叩き落されて、大きい影がそこに引き据えられると同時に、小さい影も一緒に倒れた。袂から呼子の笛を探り出して、長次郎がふた声三声ふき立てると、それを合図に銀蔵が枯枝の大松明《おおたいまつ》をふり照らして駈け付けた。
松明の火に照らし出された二人の影の正体は、二十四五の大男と十四の小娘とであった。銀蔵は先ずおどろいて声をあげた。
「あれ、まあ、善吉どんにお竹っ子か」
男は佐兵衛の兄の善吉であった。娘はかのおこよの妹のお竹であった。自分の弟の松葉いぶしに逢ったのを小女郎狐の仕業と確信することの出来ない善吉は、その墓をあらす者をも併せて疑って、果たしてそれが狐であるか無いかを確かめるために、かれは誰にも知らさずに昨夜もこの墓場に潜んでいると、夜の明けるまで何者も忍んで来る形跡はなかった。きょうの午前《ひるまえ》に、かれが村はずれの休み茶屋を通りかかると、茶屋の女房が客を相手に小女郎狐の噂をしていた。それがふと耳にはいったので、彼は店さきの榎のかげに隠れて立ち聴きをしていると、隣り村の平太郎の噂が耳にはいった。それに就いては少し思い当ることもあるので、かれは松葉いぶしの下手人の疑いを平太郎の上に置いた。そうして弟の仇を取るために、その方面にむかって探索しようと決心していると、その宵には妹のお徳が何者にか傷つけられた。かさねがさねの禍《わざわ》いに彼はいよいよ焦燥《いらだ》って、もう一度その実否《じっぴ》をたしかめるために、今夜もこの寺内に忍び込んで、長次郎より一と足さきに墓場にかくれて、自分の弟の墓のかげに夜のふけるのを待っていたのであった。
さすがは商売人だけに、長次郎は足音をぬすむに馴れているので、善吉もそれには気がつかなかった。お竹の足音はすぐに判ったので、彼はその近寄るのを待ち受けて、とうとう彼女を取り押えた。しかしその曲者が十四の小娘であったのは、彼に取っても意外の事実であったらしく、善吉はいたずらに眼をみはって、松明の下にうずくまっているお竹の姿を見つめていた。
「お前はここへなにしに来た」と、長次郎は先ずお竹に訊いた。
「姉の墓まいりに……」
「そんならなぜ垣をくぐって来た」
「お寺の御門がもう閉まって居りましたから」と、お竹は小声ながらはっきりと答えた。
「むむ、子供のくせになかなか利口だな」と、長次郎は笑った。「よし、判った。それじゃあこっちへちょいと来い」
かれはお竹を弥五郎の墓の前に連れて行って、一本の新らしい卒堵婆をぬいて見せた。銀蔵もあとから付いて来て松明をかざした。
「おい、お竹。お前の手を出してみろ」
「はい」
何ごころなく差し出す彼女が右の手をぐっ[#「ぐっ」に傍点]と引っ掴んで、長次郎は卒堵婆の上に押し付けた。
「さあ、悪いことは出来ねえぞ。この塔婆にうすく残っている泥のあとを見ろ。泥のついた手でこの塔婆をつかんで引き抜いたから、指の
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