人の与之助はこのごろ誰にも沙汰無しに、ふらりと何処へか出てゆくことが度々ある。きょうも宗吉が番屋へ引かれて行った後で、すぐに表へ出て行ったがやがて引っ返して来た。それから又そわそわと身支度をして何処へか出て行ったが、その行くさきは判らないとのことであった。
 半七は肚《はら》のなかで舌打ちした。小僧のあげられたのに怖気《おじけ》がついて、与之助はどこへか影を隠したのではあるまいかとも疑われたので、彼は馬道へ又急いで行った。そこに住んでいる子分の庄太を呼んで、上州屋のお丸の出這入りをよく見張っていろと云い付けて帰った。
「親分、しようがねえ。お丸の奴はきのう出たぎりで今朝まで帰らねえそうです。両国の薬屋の伜もやっぱり鉄砲玉だそうですよ」
 それは明くる朝、庄太から受け取った報告であった。自分らのうしろに暗い影が付きまとっているのを早くも覚って、男も女も姿を晦《くら》ましたのであろう。もう打ち捨てては置かれないので、半七は両国へ出張って表向きの詮議をはじめた。与之助の親たちや番頭どもを自身番へ呼び出して、一々きびしく吟味の末に、与之助は家の金五十両を持ち出して行ったことが判った。信州に親類があるので、恐らくそこへ頼って行ったのではあるまいかという見当も付いた。
「足弱《あしよわ》連れだ。途中で追っ付くだろう」
 半七は庄太を連れて、その次の日に江戸を発った。

     四

 八月はじめの涼しい夜であった。
 上州は江戸よりも秋風が早く立って、山ふところの妙義《みょうぎ》の町には夜露がしっとりと降《お》りていた。関戸屋という女郎屋のうす暗い四畳半の座敷に、江戸者らしい若い旅びとが、行燈《あんどう》のまえに生《なま》っ白い腕をまくって、おこんという年増《としま》の妓《おんな》に二の腕の血を洗ってもらっていた。
 旅人はここらに多い山蛭《やまびる》に吸い付かれたのであった。土地に馴れない旅人はとかくに山蛭の不意撃ちを食って、吸われた疵口の血がなかなか止まらないものである。妙義の妓は啣《ふく》み水でその血を洗うことを知っているので、今夜の客も相方《あいかた》の妓のふくみ水でその疵口を洗わせていた。
「おまえさんの手は白いのね。まるで女のようだよ」と、おこんは男の腕を薄い紙で拭きながら云った。
「怠け者の証拠がすぐにあらわれた」と、男は笑っていた。「今夜はなんだか急に寒くなったようだ」
「そりゃあ此の通りの山の中ですもの。それにきょうは霧が深かったから、あしたは降るかも知れない」
「山越しに降られちゃあ難儀だ。お天気になるように妙義様へ祈ってくれ」
「いやさ」と、おこんも笑った。「山越しの出来ないように、あしたは抜けるほど降るがいい。妙義の山の女に吸い付かれたら、山蛭よりも怖ろしいんだから、そのつもりで腰を据えていることさ。ねえ、そうおしなさいよ」
「いや、そうは行かねえ。少し急ぎの道中だから」
「急ぎの道中なら坂本から碓氷《うすい》へかかるのが順だのに、わざわざ裏道へかかって妙義の山越しをするお客様だもの、一日や二日はどうでもいい」と、おこんは意味ありげに又笑った。
 男はもう黙ってしまって、山風にゆれる行燈の火にその蒼白い顔をそむけながら、冷えた猪口《ちょこ》をちびりちびり飲んでいた。
「なにを考えているの、おまえさん」と、おこんは膝をすり寄せた。「あたしはおまえさんが可愛いから内証で教えてあげる。さっきおまえさんがこの暖簾《のれん》をくぐると、少しあとからはいって来た二人連れがあるのを知っているかえ」
 男の顔はいよいよ蒼くなった。
「その二人はどうもお前さんの為にならないお客らしいから、その積りで用心おしなさいよ」
「よく教えてくれた。ありがたい」と、男は拝むようにしてささやいた。「じゃあ、もうここにうかうかしちゃあいられねえ。夜の更けないうちにそっと発《た》たしてくれ」
「ああ、よござんす。あたしがほかの座敷へ廻っている間に、この窓からそっとぬけ出して……。今のうちに荷物をよく纒めてお置きなさいよ」
 この相談が廊下に忍んでいた庄太の耳にも洩れたので、彼はすぐに自分の座敷へ引っ返して半七にささやいた。
「女が味方をしているらしいから、油断すると逃がしますぜ」
「それじゃあ俺は外へ出ている。おめえはいい頃に座敷へ踏ん込め」
 打ち合わせをして置いて、半七はそっと表へ出ると、眼のさきに支《つか》えている妙義の山は星あかりの下に真っ黒にそそり立って、寝鳥をおどろかす山風がときどきに杉の梢をゆすっていた。大きい杉を小楯にして、半七は関戸屋の二階に眼を配っていると、やがて竹窓をめりめりと押し破るような音が低くきこえて、黒い人影が二階の横手にあらわれた。影は板葺きの屋根を這って、軒先に突き出ている大きい百日紅《さるすべり》を足がかりに、す
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