るすると滑り落ちて来るらしかった。
「与之助。御用だ」と、半七はその影を捕えようとして駈け寄ると、影はあと戻りをして坂路を一散に駈け降りた。半七はつづいて追って行った。
 杉林に囲まれた坂路をころげるように駈けてゆく与之助は、途中から方角をかえて次の坂路を駈け上がろうとするらしかった。半七はふと気がついた。この坂の上には黒門がある。妙義の黒門は上野の輪王寺に次ぐ寺格で、いかなる罪人でもこの黒門の内へかけ込めば法衣《ころも》の袖に隠されて、外からは迂濶に手がつけられなくなる。それに気がつくと、半七も少し慌てた。中仙道をここまで追い込んで来て、ひと足のところで黒門へ駈け込まれてしまっては何にもならない。彼は一生懸命に与之助のあとを追った。
 逃げる者も勿論一生懸命である。与之助は暗い坂路を呼吸《いき》もつかずに駈けあがって行った。坂の勾配《こうばい》はなかなか急で、逃げる者も追うものも浸《ひた》るような汗になった。ふたりの距離はわずかに一間ばかりしか離れていないのであるが、半七の手はどうしても彼の襟首にとどかなかった。そのうちに長い坂ももう半分以上を越えてしまって、法衣の袖を拡げたような黒い門は、星の光りでおぼろげに仰がれた。門のなかには石燈籠の灯が微かに見えた。
 半七はもう気が気でなかった。この坂一つを無事に越すか越さぬかは、与之助に取っても一生の運命の岐《わか》れ道であった。黒門の影がだんだんに眼のまえに迫って来るにしたがって、与之助も急いだ。半七もあせった。しかし与之助は運がなかった。かれは黒門から二間ほどの手前で、石につまずいて倒れてしまった。

「あのときには全く汗になりましたよ」と、半七老人は云った。「なにしろ、あの長い坂を夢中で駈け上がったんですもの、その翌朝は足がすくんで困りましたよ。そこで、だんだん調べてみると斯ういう訳なんです。前にも申し上げた通りそのお丸という女は顔に似合わない、質《たち》のよくない女で、つまり今日《こんにち》でいう不良少女のお仲間なんでしょう。自分の奉公している上州屋の息子は勿論、手あたり次第に大勢の男にかかり合いを付けていて、両国の薬種屋の息子とも情交《わけ》があったんです。そのうちに上州屋の息子は東山堂の娘を見そめて、三百両の支度金で嫁に貰おうということになったので、お丸は自分のふしだらを棚にあげて、ひどくそれをくやしがって
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