とがありましたね」
「雀合戦、蛙合戦、江戸時代にはよくあったものです。この頃そんな噂の絶えたのは、雀や蛙がだんだんに減って来たせいでしょう。あいつらも大勢いると、自然縄張り争いか何かで仲間喧嘩をするようになるのかも知れません。人間と同じことでしょうよ。ははははは」
それから枝がさいて、江戸時代の蛙やすずめの合戦話が始まった頃に、ばあやが帰って来た。雨の音が又ひとしきり強くきこえた。
「よく降りますね」と、老人は雨の音に耳をかたむけながら又云い出した。「今もお話し申した雀合戦、蛙合戦のほかに螢合戦、蝶合戦などというのもあります。螢合戦もわたくしは一度、落合《おちあい》の方で見たことがあります。それから蝶合戦……。いや、その蝶合戦について一つのお話がありますが、まだお聴かせ申しませんでしたかね」
「まだ伺いません。聴かしてください」と、私は一と膝のり出した。「その蝶合戦が何か捕物に関係があるんですか」
「大ありで、それが妙なんですよ」
これが口切りで、わたしは今夜もひとつの新らしい話を聴き出すことが出来た。
万延元年六月の末頃から本所《ほんじょう》の竪川《たてかわ》通りを中心として、その附近にたくさんの白い蝶が群がって来た。はじめは千匹か二千匹、それでも可なりに諸人の注意をひいて、近所の子ども等は竹竿や箒などを持ち出して、面白半分に追いまわしていると、それが日ましに殖《ふ》えて来て、六月|晦日《みそか》にはその数が実に幾万の多きに達した。なにしろ雪のように白い蝶の群れが幾万となく乱れて飛ぶのであるから、まったく一種の奇観であったに相違ない。
「蝶々合戦だ」と、みな口々に云った。
むらがる蝶は狂っているのか戦っているのか能く判らなかったが、ともかくも入りみだれて追いつ追われつ、あるいは高く、あるいは低く、もつれ合って飛んでいる。疲れたのか傷ついたのか、水の上にはらはらと舞い落ちるのもある。風に吹きやられて大空にひらひらと高く舞いあがるのもある。そこらは時ならぬ花吹雪とも見られる景色であるので、屋敷の者も町屋《まちや》の者も総出になって、この不思議なありさまを見物しているうちに、誰が云い出すともなく、こんな噂がそれからそれへとささやかれた。
「やっぱり善昌さんの云うのはほんとうだ。弁天さまのお告げに嘘はない。これは何かのお知らせに相違あるまい」
気の早いのは松坂
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