「蝶合戦のあったというのはここらだな」
「そうでしょう」と、熊蔵は云った。「わっしは見なかったが、なんでも大変な評判でしたよ」
「むむ。評判だけは俺も聴いている」と、半七は立ちどまって川の水をながめていたが、やがて子分にささやいた。「おい、おめえはさっきあの木像を嗅いで、どんな匂いがした」
「なんだか髪の油臭いような匂いがしましたよ」
「むむ」と、半七はうなずいた。「善昌は尼だ。髪の油に用はねえ筈だ。なんでも油いじりをする奴があの木像に手をつけたに相違ねえ」
「すると、そのお国とかいう女髪結がいじくったかも知れませんね」
「おめえはあの死骸を誰だと思う」
「え」と、熊蔵は親分の顔をながめた。
「おれの鑑定では、あれがお国という女髪結だな」
「そうでしょうか」と、熊蔵は眼を見はった。「どうしてわかりました」
「あの死骸の手にも油の匂いがしている。梳《す》き油や鬢付《びんつ》けの匂いだ。元結《もっとい》を始終あつかっていることは、その指をみても知れる。善昌は三十二三だというのに、あの肉や肌の具合が、どうも四十以上の女らしい。足の裏も随分堅いから、毎日出あるく女に相違ねえ」
「それじゃあお国の首を斬って、その胴に善昌の法衣《ころも》を着せて置いたんでしょうか」
「まずそうらしいな。お国はゆうべから帰らねえというが、おそらく来年の盆までは娑婆《しゃば》へ帰っちゃあ来ねえだろうよ」と、半七はにが笑いをした。「それにしても、なぜお国を殺したかが詮議物だ。お国を自分の替え玉にして残して置いて、本人の善昌はどこにか隠れているに相違ねえ。おめえはこれから引っ返して、お国という女の身許や、ふだんの行状をよく洗って来てくれ。そうしたら何かの手がかりが付くだろう」
「ようがす。すぐに行って来ます」
「いや、待ってくれ。おれも一緒に行こう。こんなことは早く埒をあける方がいい」
 ふたりは連れ立って又引っ返した。
 お国の家は弁天堂の隣り町《ちょう》で、これも狭い露路の奥の長屋であった。近所でだんだん聞きあわせると、お国の評判はどうもよくない。若いときから二、三人の亭主をかえて、今では独身《ひとりみ》で暮らしているが、絶えず一人ふたりの男にかかり合っているらしく、親類の家へ泊まりにゆくというのも嘘かほんとうか判らない。その菩提寺の住職が去年死んで、その後は若い住職に変ったが、その僧とも何かの係
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