共にもいい知恵が浮かびませんので、お忙がしいところを御相談に出ましたのでございますが、まあ、これはどう致したものでございましょう」
 半七は眼を薄くつむって考えていたが、やがてしずかにうなずいた。
「ようございます。なんとか致しましょう。わたしから桂庵の方へ掛け合ってあげてもいいが、ともかくも証文を反古《ほご》にするというのは穏かでない行き方ですから、なんとかほかの段取りにしてみましょう。そのお通という娘のことばかりでなく、こりゃあ私の方でも少し調べて見にゃあならねえことですから、まあ、私に任せてください。桂庵は相模屋ですね」
「外神田の相模屋でございます」
「お徳には心配するなと云ってください。二、三日のうちに何とかしましょうから」
「なにぶんお願い申します」
 くれぐれも頼んで、平兵衛は帰った。

     二

 午飯《ひるめし》を食ってから半七は三河町の家を出て、外神田の相模屋をたずねると、桂庵でも彼の商売を知っているので、素直に奉公人の出入り帳を出してみせた。この正月の末にお通を目見得にやった奉公先は向島の寺島村の寮で、この寮の主人は霊岸島の米問屋の三島であることが判った。
 この頃は諸式|高直《こうじき》のために、江戸でもときどきに打毀《うちこわ》しの一揆が起った。現にこの五月にも下谷神田をあらし廻ったので、下町《したまち》の物持ちからはそれぞれに救い米の寄付を申し出た。そのときに彼《か》の三島では商売柄とはいいながら、一軒で白米二千俵の寄付を申し出て世間を驚かしたことを、半七はまだ耳新しく記憶していた。その三島の寮が向島の奥にあって、そこに何かの秘密がひそんでいるとすれば、猶更うっちゃって置くことは出来ない。半七は一旦自分の家へ帰って、子分の松吉を呼んだ。
「おい、ひょろ松。おめえ御苦労でも霊岸島へ行って、三島の様子をちょっと調べて来てくれ。あすこの家《うち》に年頃の娘はねえか」
「あすこの娘なら知っています。おきわと云って近所でも評判の小町娘《こまちむすめ》で、もう十九か二十歳《はたち》になるでしょう」
「その娘はどうした。家にいるか」
「それがなんでも三年まえの今時分でしたろう。店の若い者と駈け落ちをしてしまって、今にゆくえが知れねえそうです」と、松吉は云った。
「駈け落ちの相手はなんという野郎だ」
「そりゃあ知りません」
「そいつを調べてくれ。そればかりでなく、三島の家の様子も調べて来るんだぜ。そのおきわという娘に弟妹《きょうだい》があるかどうか。それをよく洗って来てくれ。いいか」
「ようがす」
 松吉はすぐに出て行った。なにぶんにも頭が重いので、半七は湯にはいって風邪薬を飲んで、日の暮れないうちから衾《よぎ》を引っかぶって汗を取っていると、夜の五ツ(午後八時)頃に松吉が帰って来た。
「親分、ひと通りは調べて来ました。娘と駈け落ちした奴は良次郎といって、宿は浅草の今戸《いまど》だそうです。年は二十二で小面《こづら》ののっぺりした野郎で、後家さんのお気に入りだったそうです」
「で、どこへ行ったか、まったく判らねえのか」
「判らねえそうです。無論に浅草の宿にはいねえんですが、どこへ行っていますか」
「おきわには弟妹があるのか」
「ありません。一人娘だそうです」
「そうか」
 少し見当がはずれたので、半七は床の上で首をかしげていたが、そのほかにも松吉が調べて来た三島の一家の事情をそれからそれへと詮議して、半七はなにか思い当ることがあったらしい。にやにや笑いながらうなずいた。
「よし、もうそれで大抵わかった」
「ようがすかえ、それだけで」
「もういい、あとは俺が自分でやる」
 あくる朝早く起きると、ゆうべ汗を取ったせいか半七の頭も余ほど軽くなった。陰《かげ》ってはいるが、きょうは雨やみになっているので、半七はあさ飯の箸を措《お》くとすぐに町内の生薬屋《きぐすりや》へ行った。女中のお徳をよび出して、妹の手紙をとどけて来たという男の人相や年頃を詳しく訊いて、その足で更に今戸の裏長屋をたずねた。この頃の長霖雨《ながじけ》で気味の悪いようにじめじめ[#「じめじめ」に傍点]している狭い露路の奥へはいって、良次郎の家というのを探しあてると、二畳と六畳とふた間の家に五十近い女と、十四五の小娘とが向いあって、なにか他人《ひと》仕事でもしているらしかった。裏店《うらだな》の割には家のなかが小綺麗に片付いているのが半七の眼をひいた。
「あの、早速でございますが、こちらの良次郎さんは唯今どちらへおいででしょうか」
「はい」と、母らしい女は針の手をやめて見返った。「おまえさんはどちらからお出でになりました」
「霊岸島からまいりました」と、半七はすぐ答えた。
「霊岸島から……」と、女は半七の顔をじっと眺めていたが、やがて起って入口へ出て来た。「じゃあ、三島のお店からですか」
「左様でございます」
 云い切らないうちに、女は框《かまち》から片足おろして、いきなり彼の袖をつかんだ。
「それはこっちで訊きたいんです、伜はどこに居ります。良次郎はどこにいます」
 逆捻《さかね》じを食って少しあわてた半七は、わざと仰山《ぎょうさん》らしく驚いてみせた。
「おかみさん、飛んでもねえことを……。ここの家で知らないで、誰が知っているもんですか」
「いいえ、そうは云わせません。店で良次郎をどこへか隠しているんです。わたしはちゃんと知っています。お嬢さんと駈け落ちをしたなんて、嘘です、嘘に相違ありません。良次郎は御主人の娘をそそのかして淫奔《いたずら》をするような、そんな不心得な人間じゃありません。ここにいるお山《やま》はほんとうの妹じゃありません。もう一、二年経つと彼《あれ》と一緒にする筈になっているんです。そういう者がありながら、そんな不埒なことをするような良次郎じゃございません。第一あんな親孝行の良次郎が親を打っちゃって置いて、どこへか姿をかくす筈がありません。おまえさんの方で隠しているんです。さあ、どこにいるか教えてください」
 気違いのような権幕《けんまく》で責めたてられて、半七もいよいよ持て余した。
「まあ、待ってください。成程そんなことがあるかも知れませんが、私はまったく知らないんです。店の方から云い付けられて、ただ正直に出て来ただけのことなんです。じゃあ、良次郎さんはまったくこちらには居ないんですか」
「いませんとも……」と、女は声をうるませながら云った。「自分の方でどこへか隠して置きながら、白ばっくれて探しによこすなんて、あんまり人を馬鹿にしている。いいえ、こっちには確かな証拠があります。見せてあげるからお待ちなさい」
 女は奥の仏壇の抽斗《ひきだし》から一通の手紙を持ち出して来て、半七の眼さきへ突きつけた。すぐに受け取ってあけてみると、自分はよんどころない訳があって、三年のあいだは姿を隠している。三年たてばきっと帰ってくるから心配してくれるな。世間ではお嬢さんと駈け落ちしたなどと云い触らすかも知れないが、それにも訳のあることだから、お山にもよく云ってくれ。御主人の為と親の為とで斯《こ》ういうことをするのだから、かならず悪く思ってくれるなと書いてあった。
「この手紙に三十両のお金を付けて、人に頼んでそっと届けてよこしたんです」と、女は泣きながら云った。「これが確かな証拠です。御主人の為にと書いてあるじゃありませんか。親の為とも書いているのを見ると、三年の間どこにか隠れていれば、きっと五十両やるとか百両やるとかいう約束があるに相違ありません。あれは親孝行な人間ですから、そんなことを引き受けて御褒美を貰って、親に楽をさせる料簡なんでしょうが、わたしの方じゃあお金なんぞは要りません。それより一日も早くわが子の無事な顔がみたいと思っています。三十両のお金は幾らか遣いましたけれど、残った分はみんな返しますから、どうぞ伜を連れて来てください。お願いですから」
 かれは再び半七の袖を掴んで、ゆすぶりながら泣いて口説いた。お山という娘も声をたてて泣き出した。
 思いもよらない愁嘆場《しゅうたんば》を見せられて、半七ももう仮面《めん》をかぶっていられなくなった。
「おかみさん。もう斯うなりゃあ何もかも正直に云うが、わたしは霊岸島から来た者じゃあねえ。わたしは御用聞きの半七という者で、実は少し調べたいことがあって出て来たんだが、おまえの話でみんな判った。もう案じることはねえ。良次郎はきっと連れて来てやるから、二、三日おとなしく待っているがいい」
 御用聞きと聞いて、女は急に涙を拭いた。そうして、伜のゆくえを探索してくれるようにくれぐれも頼んだ。

     三

 お通と良次郎のほかに、半七はおきわという娘のゆくえをも突き留めなければならなかった。おきわは向島の寮に押し籠《こ》められて、土蔵の二階に住んでいるに相違ない。お通が見たという幽霊のような女はそれである。半七は確かにそれと見きわめながらも、まさかにつかつか踏み込んで出しぬけに土蔵の戸前《とまえ》をあけるわけには行かないので、もう少し確かな証拠を握りたいと思った。かれは今戸の露路を出ると、すぐに向島の方角へ足をむけると、陰った空は又暗くなって、霧のような雨が煙《けむ》って来た。途中で番傘を買って、竹屋の渡しを渡って堤《どて》へ着くと、雨はだんだんに強くなって葉桜の堤下はいよいよ暗くなった。
 もう午《ひる》に近いので、かれは堤下の小料理屋へはいって、しじみ汁とひたし物で午飯をくっていると、古ぼけた葭《よし》の衝立《ついたて》を境にして、すこし離れた隣りにも二人づれの客が向い合っていた。はじめは二人ともに黙ってちびりちびり飲んでいるらしかったが、そのうちに年上らしい一人の男が微酔《ほろよい》機嫌で云い出した。
「え、おい。あの餓鬼をどうかしてくれねえじゃあ困るじゃねえか。どうで田の草を取っていた日向《ひなた》くせえ女だ。気に入らねえのは判り切っているが、眼をつぶって往生してくれ。あいつに逃げられるとまったく困るから」
 若い男は黙っていた。
「あいつの足止めをするのは慾得ばかりじゃあいけねえ。そこで色男に頼むんだ。我慢して相手になってやってくれ。恋と情けのしがらみに、とか何とかいうのはここのことだ。なにも一生の女房にするというわけじゃあねえ。ちっとの間の辛抱だよ」
「そんな罪なことはしたくないから」と、若い男は溜息まじりに云った。
「ひどく聖人になり澄ましたな」と、年上の男はあざわらった。「ええ、おい。嘘にもほんとうにもしろ、お嬢さんと駈け落ちをしたという色男じゃあねえか。どうで溷鼠《どぶねずみ》だ。今更まじめな面をしたって、毛の色は白くならねえぜ」
「わたしも今になって後悔している。ふだんから眼をかけて下さるおかみさんに口説かれて、よんどころなく引き受けてしまったが、ああ悪いことをしたと此の頃じゃあ切《しき》りに後悔している。世間からはうしろ指をさされ、親たちには苦労をかけ、こんな間違ったことはない。もう此の上は誰がなんと云っても、決してそんな相談には乗らないつもりだ。お通という女中もそれほど帰りたがるなら、すなおに帰してやったらいいじゃありませんか」
「帰してよければ苦労はない」と、年上の男は急に声を低くした。「あんな奴でも口がある。うっかり帰してやったら世間へ出て何をしゃべるか判らねえ。どうしてもここは色男にお頼み申して、足止めのおまじないをして貰うよりほかにはねえ。え、良さん。おめえ、どうしても忌《いや》か。毒くわば皿で、おめえも一度こういうことを引き受けた以上は、一寸斬られるのも二寸斬られるのも血の出るのは同じことだ。え、おい、器用にうんと云ってくれ。俺から又おかみさんの方へもいいように話してやる。おかみさんだって野暮じゃねえ。重《おも》た増《ま》しが出るのは判っているから、素直《すなお》におとなしく引き受けてくれ」
「いや、もうなんと云われても私はあやまる。誰かほかの人に頼んで……」
「ほかの人に頼めるくらいなら、口をすぼめやあしねえ。今こそ堅気《かたぎ》の寮番でくすぶっている
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