していた。花火はなくともきょうは川開きという書入れの物日《ものび》に、彼女はふだん着の浴衣のままで家を飛び出して来たらしかった。
「どうしたんだ。姉さんと何か喧嘩でもしたのか。この頃はもう何か出来たという評判だから、それで姉さんといがみ合ったんじゃあねえか。そんな尻をおれの方へ持って来たって、辻番が違うぜ」と、半七はからかうように相手の顔をのぞくと、お浪は嫣然《にこり》ともしなかった。
「いいえ、お前さん。そんなどころじゃないんですとさ」と、お仙も顔をしかめながら云った。「姉さんが今、番屋に止められたと云って、なあ[#「なあ」に傍点]ちゃんが泣き込んで来たんです。どうしたんでしょうねえ」
「ねえさんが番屋へあげられた」と、半七も団扇《うちわ》の手をやすめた。「なにかお客の引き合いじゃあねえか」
「じゃあ、親分さんはまだ御存じないんですか」と、お浪は眼を拭きながら云った。
「なんにも知らねえ。おめえの家《うち》に何かあったのかえ」
「お父っさんがけさ殺されたんですよ」
 お浪の話によると、けさの六ツ(午前六時)前にお照の家の戸を軽くたたく者があった。朝寝坊の芸妓《げいしゃ》家では、台所に近い三畳で女中のお滝がようよう蚊帳《かや》をはずしているところであった。戸をたたく音を聞きつけて、お滝はすぐに入口へ出て行こうとすると、茶の間の六畳に寝ていたお照の父の新兵衛が蚊帳の中からあわてて呼び止めて、出てはいけない、明けてはいけないと、小声で叱るように云った。叱られてお滝も少しためらっていると、やがて表を叩く音は止んだ。と思うと、今度は裏口の方から跳り込んで来たものがあった。お滝が起きると、すぐに水口《みずくち》の戸を一枚あけて置いたので、得体《えたい》のわからない闖入者は薄暗がりの家の奥へまっしぐらに飛び込んで、新兵衛の蚊帳のなかへ鼠のようにくぐって這入った。年のわかいお滝は呆気《あっけ》に取られて眺めていると、かれは忽ち蚊帳から這い出して来て、もとの水口から駈け出してしまった。まだ起きたばかりで半分寝ぼけているお滝には、何がどうしたのか判らなかった。彼女はしばらく夢のように突っ立っていたが、なんだか少し不安にも思われるので、そっと茶の間へはいって蚊帳の中をのぞいて見ると、新兵衛の寝衣《ねまき》には紅い血が一面に泌み出していた。
 腰をぬかさないばかりにびっくりして、お滝は二
前へ 次へ
全17ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング