取っては余ほど大切の仏であるらしく、その日には新兵衛が手ずから仏壇に燈明を供えて、なにか念仏を唱えていたとのことであった。
「ちゃんはこの頃どっかへ行ったことがあるかえ」
「いいえ。もとから出嫌いの人でしたが、この頃はちっとも外へ出ないで、内にばかり坐っていました。そうして、なんだか人に逢うのを忌がっているようでした」と、お浪は云った。
 自分の鑑定がだんだんに中《あた》ってくると半七は思った。彼はもう一度新兵衛の死骸をあらためると、その左の二の腕には紅葉を一面に彫ってあって、その蒼黒い葉のかげに入墨《いれずみ》の痕がかくされているのが確かに判った。新兵衛はその過去の犯罪の暗い履歴をもっていて、その腕の刺青《ほりもの》は入墨を隠すためであることもすぐに覚られた。彼はその罪を悔いて情けぶかい結構人になった。その罪をほろぼすために毎月の放し鰻をした。かれの犯罪は月の四日の仏に関係をもっているらしいと半七は思った。しかし、どうしてその仏を見付け出していいか。半七はさすがに見当が付かなかった。
 そのうちに浅草の七ツ(午後四時)がきこえたので、半七はともかくもここを出て、向う両国へまわって幸次郎の模様を見て来ようと、居あわせた人達に挨拶して門《かど》を出ると、陰った空のうえから紫の光がさっ[#「さっ」に傍点]とほとばしって来た。おや、光ったなと思う間もなく、大粒の雨がどっ[#「どっ」に傍点]と降り出したので、半七は舌打ちをしながら再び内へ引っ返した。
「とうとう降って来た」
「夕立ですからすぐに止みましょう」と、お浪は入口の戸を一枚閉めながら云った。
 よんどころなしに半七は茶の間へ戻って又坐ると、稲妻がまた光って、雷の音がだんだん近くなって来た。ぶちまけるような夕立が飛沫《しぶき》を吹いて降り込んで来るので、みんなも手伝って方々の戸を閉めた。狭い家のなかには線香の煙りがうず巻いてみなぎって、息がつまるほどに蒸し暑いのを我慢して、半七も扇を使いながら其処に晴れ間を待っていると、雨はやがて小降りになったので、お浪が傘を貸そうというのを断わって出た。半七は手拭をかぶって、尻を端折《はしょ》って、ぬかるみを飛び飛びに渡りながら両国橋を越えた。
 川向うの観世物小屋はもう大抵しまっていた。今の夕立が往来の人を追っ払ってしまったらしく、ぐしょ[#「ぐしょ」に傍点]濡れになった菰《こも
前へ 次へ
全17ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング