っていたそうです」
「そうか。そうして、その娘は駕籠に乗り馴れているらしかったか」
「さあ、そこまでは聞きませんでした。なにしろ真人間じゃあねえらしいから。そこはなんとか巧《うま》く誤魔化していたでしょうよ」
「もう一遍きくが、その娘は十七八だと云ったな」
「そうです。そういう話です」
「いや、御苦労。おれもまあ考えてみようよ」
 岩蔵は親分の前を退がって、ほかの子分どもの集まっている部屋へ行った。そうして大きな声で、水茶屋の娘の噂か何かをしているのを聴きながら、七兵衛は長火鉢の前でじっと考えていたが、やがて喫《す》いかけている煙管《きせる》をぽんとはたいて、ひとり言のように云った。
「わるい悪戯《いたずら》をしやあがる」
 日がくれてから七兵衛は葺屋町の家を出て、浅草の念仏堂の十夜講に行った。その途中で、念のために、柳原の堤を一と廻りして見ると、槍突きの噂におびえているせいか、長い堤には宵から往来の足音も絶えて、提灯の火一つもみえなかった。昼から陰っていた大空は高い銀杏《いちょう》のこずえに真っ黒に圧《お》しかかって、稲荷の祠《ほこら》の灯が眠ったように薄黄色く光っているのも寂しかった。かた手に数珠《じゅず》をかけている七兵衛は小田原提灯を双子《ふたこ》の羽織の下にかくして、神田川に沿うて堤の縁《ふち》をたどってゆくと、枯れ柳の痩せた蔭から一人の女が幽霊のようにふらりと出て来た。
 七兵衛は暗いなかでじっと透かしてみると、女の方でもこっちを窺っているらしく、やがて摺り抜けて両国の方へ行こうとするのを、七兵衛はうしろから呼び戻した。
「もし、もし、姐《ねえ》さん」
 女はだまって立ち停まったが、又そのままに行き過ぎようとするのを、七兵衛は足早にそのあとを追って行った。
「おい、姐さん。このごろは物騒だ。私がそこまで送って上げようじゃねえか」
 こう云いながら、かれは隠していた提灯をその眼先へ突き付けようとすると、提灯はたちまち叩き落された。こっちは内々覚悟していたので、すぐその手首を捕えようとすると、両手はしびれるほどに強く打たれて、数珠の緒は切れて飛んでしまった。さすがの七兵衛もはっ[#「はっ」に傍点]と立ちひるむひまに、女のすがたは早くも闇の奥にかくれて、かれの眼のとどく所にはもう迷っていなかった。

     二

「あれが化け猫か」
 追ってもとても追い付きそうもないのと、また執念ぶかく追いまわす必要もないのとで、七兵衛は先ず足もとに叩き落された提灯を拾おうとして、身をかがめながら暗い地面を探っている時、どこから現われたのか、一つの黒い影がつかつかと走って来て、声もかけないで彼の屈《かが》んでいる左の脇腹を突こうとした。その足音に早くも気のついた七兵衛は、小膝をついて危く身をかわしたので、槍の穂先はがちりと土を縫った。その柄《え》をつかんで起き直ろうとすると、相手はすぐに穂をぬいて、稲妻のような速さで二の槍をついて来た。これも危く飛びこえて、七兵衛はようようまっすぐに起きあがると、槍はつづいて彼の腹か股のあたりへ突きおろして来たが、どれも幸いに空《くう》をながれて彼の身には立たなかった。
「御用だ」
 もう堪まらなくなって声をかけると、相手はすぐに槍を引いて、暗いなかを一散に逃げてしまった。猫の眼をもたない七兵衛は、彼の姿をなんにも認めなかったのを残念に思ったが、自分に怪我《けが》のなかったのをせめてもの幸いにして、落ちた提灯をようように探しあてた。商売柄で夜は身を放さない燧《ひうち》袋から燧石を出して、折れた蝋燭に火をつけてそこらを照らしてみたが、なにかの手がかりになりそうなものは見付からなかった。
 さっきの怪しい女と、今の槍の主《ぬし》と、それとこれとを結びつけて考えながら、七兵衛はそれから浅草へ行った。物騒な噂が後生《ごしょう》ねがいの人々をもおびやかしたとみえて、十夜詣りも毎年ほどは賑わっていなかった。切れた数珠を袂にした七兵衛も、今夜はおちつかない心持で御説法を聴いて帰った。帰り途には何事もなかった。
 臆病な駕籠屋の口から洩れたのであろう。この頃は市内に化け猫があらわれるという噂が立った。槍突きの噂が静まらないうちに、更に化け猫の噂が加わったのであるから、女子供などはいよいよおびえた。それが八丁堀同心の耳にもはいって、更に町奉行所へもきこえて、奇怪の風説を取り締るようにという注意もあったが、その風説は尾鰭《おひれ》をそえて、それからそれへとますます拡がった。もう打っちゃっても置かれないので、七兵衛は自分で浅草へ出張って、馬道《うまみち》の裏長屋に住んでいる駕籠屋の勘次をたずねた。
「辻駕籠屋の勘次さんというのは、この御近所ですかえ」と、七兵衛は路地の入口の荒物屋で訊いた。
「勘次さんはこの裏の三軒目ですよ
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