は渡り切れねえ」と、七兵衛はうす明るい水の上を眺めながら云った。「もうじきに白魚の篝《かがり》が下流《しもて》の方にみえる時節だ。今年もちっとになったな」
 こう云っている彼の袂を勘次はそっとひいた。七兵衛がかれの指さす方角に眼をむけると、ひとりの女がうつむき勝ちに歩いていた。
「蔵前の化け猫じゃあねえか」と、七兵衛は小声で訊いた。
「そうですよ。どうもそうらしいと思いますよ」と、勘次もささやいた。「わたくしは商売ですから、一度乗せた客はめったに忘れません。この間の晩、猫になったのはあの女ですよ」
「おれもそうらしいと思っている。少し待ってくれ。おれが行って声をかけるから」
 七兵衛は引っ返して女のあとをつけた。広小路寄りの橋番小屋のまえまで行った時に、かれは先廻りをして女の前に立って、小屋の灯かげで頭巾《ずきん》をのぞいた。
「若先生。先夜は失礼をいたしました」
 女はちょっと立ち停まったが、そのまま無言でゆき過ぎようとするのを、七兵衛は追いすがって又呼んだ。
「内田の若先生。あなたも槍突きの御詮議でございますかえ。とんだ御冗談をなさるので、世間じゃあみんな化け猫におびえていますよ」
「ほほほほほほ」
 女は笑いながら頭巾をぬいで、まだ前髪のある白い顔をみせた。大柄ではあるが、ようよう十五六であろう。かれは眼の涼しい、口元の引き締った、見るから優《やさ》しげな、しかも凛々《りり》しい美少年であった。
「おまえは誰だ。どうして私を識っている」
「今牛若という若先生が両国橋を歩いていらっしゃるのは、五条の橋の間違いじゃあございませんかえ」と、七兵衛は笑った。「下谷の内田先生の御子息に俊之助様という方のあるのは盲でも知っていましょう。このあいだの晩、柳原でちょっとお目にかかりました時に、お手並はすっかり拝見いたしました。提灯の火でちらりとお見受け申したところ、身のかまえ、小手先の働き、どうも唯の方ではないと存じました。御修行かたがた槍突きを御詮索になるのは結構ですが、器用に駕籠ぬけをして身代りに猫を置いていらしったりするもんですから、世間の騒ぎはいよいよ大きくなって困ります。もうこの後はどうか悪い御冗談はお見合わせください、臆病な奴らはふるえていけませんから」
「何もかもよく知っている」と、少年は笑い出した。「そうしてお前は誰だというに……」
「御用聞きの七兵衛でございます」
「ははあ、それでは知っている筈だ。親父のところへも二、三度たずねて来たことがあるな」
「へえ。この槍突きの一件で、お父様にも少々おたずね申しに出たことがございました」
 女装の少年は七兵衛に見あらわされた通り、当時下谷に大きい町道場をひらいている剣術指南内田伝十郎の息子であった。この夏以来、かの槍突きの噂がさわがしいので、血気にはやる若い弟子たちのうちには、世間のため修行のために、その槍突きの曲者を引っ捕えようとして、毎晩そこらを忍び歩いている者もあった。俊之助はそれが羨ましくなったので、今牛若の名を取っている彼は父の許しを受けて、これも先月の末頃から忍んで出た。これまでほかの弟子たちが一度も当の敵に出逢わないのは、むやみに肩肱を怒《いか》らせて大道のまん中を押し歩いているからである。自分はまだ前髪立ちの少年であるのを幸いに、女に化けて敵を釣り寄せてやろうと考えて、俊之助は姉の衣服をかりて頭巾に顔をつつんだ。そうして夜にまぎれて忍んで出ると、果たして広徳寺前で不意に突きかけられた。無論に身をかわして引っぱずしたが、相手は逃げ足が早いので、それを取り押えることが出来なかった。
 年のわかい彼はそれを口惜しがって、その意趣返しに一度相手を弄《なぶ》ってやろうと思った。かれは家を出るときに黒い野良猫を絞め殺して、その死骸をふところに忍ばせていると、それがうまく図にあたって槍の穂先が駕籠を貫く途端に、身の軽い彼は早くも外へぬけ出して、身がわりの猫を残して行ったのである。
「とんだ悪戯《いたずら》をして相済まなかった。堪忍してくれ」と、俊之助は何もかも打ち明けて笑った。
「その後も毎晩お忍びでございましたか」と、七兵衛は訊いた。
「家へ帰って自慢そうにその話をすると、父からひどく叱られて、なぜそんな悪戯をする、いたずらばかり心掛けているから肝腎の相手を取り逃がすようにもなる。本気になって相手をさがせと厳しく云われたので、その後も怠らずに毎晩出あるいているが、月夜のつづくせいか、この頃はちっとも出逢わないで困っている」
「それは御苦労さまでございます。しかしもう御心配には及びません。その相手という奴は大抵知れました」
「むむ、知れたか」
 この途端に足音をぬすんで近寄る者があるらしいので、油断のない二人はすぐに振り返ると、ひとりの大男が短い刃物をひらめかしていきなりに突
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