ら、飽くまでも知らないと強情を張った。亀吉はとうとう腹を立てて、喧嘩腰でしきりに問い落そうと試みたが、彼はどうしても口をあかなかった。自分は商売物の猫の児をなくした覚えはないと固く云い切った。亀吉も根《こん》負けがして親分の顔色をうかがうと、半七はしずかにうなずいた。
「よし、判った、判った。こりゃあ何かの間違いに相違ねえ。おまえさん、朝っぱらから飛んだ迷惑をさせて、どうもお気の毒でした。まあ、堪忍して帰ってください」
「じゃあ、もう帰りましても宜しゅうございますか」と、富蔵はほっ[#「ほっ」に傍点]としたように云った。
「ほんとうに堪忍しておくんなせえ。そのうちに何かで埋め合わせをするから」
「どう致しまして、恐れ入ります。じゃあ、これで御免を蒙ります」
怱々に出てゆく富蔵のうしろ姿を見送って、亀吉は忌々《いまいま》しそうに舌打ちをした。
「あの野郎、横着な奴だ。きょうは無事に帰してやっても、すぐに証拠をあげてもう一度引き摺って来てやるから覚えていやあがれ」
「まあ、熱くなるな」と、半七は笑いながら云った。「あの野郎、猫をなくしたに相違ねえ。さっきからの様子で大抵わかっている。だが、それをむやみに隠すというのが判らねえ。ここでいつまでも云い合っていても論は干《ひ》ねえから、今はおとなしく帰してやって、あいつの家の近所へ行ってそっと訊いて見る方がいい。御用仕舞いでおれもきょうは暇だから、午飯《ひるめし》でも食ってから一緒にぶらぶら出かけて見よう」
「おまえさんが一緒に来てくんなさりゃあ大丈夫です。あの野郎、おれに恥をかかしゃあがったから、邪が非でも証拠をあげて、ぎゅう[#「ぎゅう」に傍点]という目に逢わしてやらにゃあならねえ」と、亀吉は激しい権幕《けんまく》で時刻の来るのを待っていた。
午飯を食って、二人がこれから出掛けようとするところへ、善八がぼんやりしてやって来た。
「どうも面白い見付け物はありません。御存知の通り、麹町の三河屋は屋敷万歳の定宿《じょうやど》で、毎年五、六人はきっと巣を作っていますから、念のために其処《そこ》へも行ってみると、案の定《じょう》そこにもう五人ばかり来ていました。そのなかで市丸太夫という男の才蔵がまだ揃わないので、太夫は心配して朝から探しに出たそうです」
以前は日本橋の四日市に才蔵市《さいぞういち》というものが開かれて、三河から出てくる万歳どもはみな其の市へあつまって、思い思いに自分の才蔵を択《えら》むことになっていたが、天保以後にはそれがもう廃《すた》れて、万歳と才蔵とは来年を約束して別れる。そうして、その年の暮に万歳が重ねて江戸へ下《くだ》ると、主《おも》に安房《あわ》上総《かずさ》下総《しもうさ》から出て来る才蔵は約束の通りその定宿へたずねて行って、再び連れ立って江戸の春を祝ってあるく。それが此の頃の例になっているので、万歳はその都度《つど》に才蔵を選ぶ必要はなかった。
遠国《おんごく》同士の約束は甚だ不安のようではあるが、義理の固い才蔵は万一自分に病気その他の差し支えがある場合には、差紙《さしがみ》を持たせて必ず代人を上《のぼ》せることになっているので、大抵は間違いも無しに済んでいた。その才蔵が約束通りにたずねて来ない、又その代人もよこさないとあっては、万歳の市丸太夫が当惑するのも無理はなかった。いくら立派な出入り屋敷をたくさん持っていても、才蔵を連れない万歳は武家屋敷の門松をくぐる訳にはゆかなかった。
「その才蔵はなんという名で、どこの奴だ」と、半七は訊いた。
「下総の古河《こが》の奴で、松若というんだそうです」
「松若……。洒落《しゃれ》た名だな」と、亀吉は笑った。「すると、親分。その松若が詮議者ですね」
「で、その市丸太夫というのには逢わねえんだな」と、半七は念を押した。
「逢いません」と、善八は答えた。「なんでも五十二三の大柄の男で、酒を飲むとむやみに陽気に騒ぎ散らすと宿の女中が話していました。ふだんはまじめな面《つら》をしているが、なかなか道楽者らしい男で、酔うと三味線なんぞをぽつんぽつん弾《や》るということです」
「そうか。それじゃもう一度その三河屋へ行って、市丸太夫の帰るのを待っていて、その才蔵というのはどんな奴か、又その鬼っ児に何か心あたりはねえか、よく調べてくれ」
善八を出してやって、ふたりは下谷の稲荷町へ足を向けた。朝からの空っ風が白い砂けむりを吹き巻いている広徳寺前をうろついて、ようように香具師の富蔵の家を探しあてた。鉤《かぎ》の手に曲がっている路地の奥で、隣りの空地《あきち》には、稲荷の社《やしろ》が祀《まつ》られていた。近所で訊いてみようと四辺《あたり》を見まわすと、三十格好の女房が真っ赤な手をしながら井戸端で大束《おおたば》の冬菜《ふゆな》を洗っていて、そのそばに七つ八つの男の児が立っていた。
「もし、おかみさんえ」と、半七は近寄って馴れなれしく声をかけた。「あすこの富蔵さんはお留守ですかえ」
「富さんはいませんよ」と、女房は素気《そっけ》なく答えた。「きょうは薬研堀《やげんぼり》の方へでも行ったかも知れません」
富蔵は独身者《ひとりもの》で、香具師とはいうものの自分が興行をしているのではない。どこかの観世物小屋に雇われて木戸番を勤めているらしいことは、亀吉の報告でわかっていた。半七は小声でまた訊いた。
「あの富さんの家《うち》に猫が飼ってありましたか」
「猫ですか。あの猫じゃあ……」
云いかけて女房は口を噤《つぐ》んでしまった。
「その猫がどうかしましたかえ」
女房は自分のうしろをちょっと見かえってやはり黙っていた。素直には云いそうもないと思って、半七はふところに手を入れた。
「ここにいるのはおかみさんの子供かえ、おとなしそうな児だ。小父さんが御歳暮に紙鳶《たこ》を買ってやろうじゃねえか。ここへ来ねえ」
紙入れから一朱銀を一つつまみ出してやると、裏店《うらだな》の男の児はおどろいたように彼の顔をみあげていた。女房は前垂れで濡れ手をふきながら礼を云った。
「どうも済みませんねえ。こんなものをいただいちゃあ……。おまえ、よくお辞儀をおしなさいよ」
「なに、お礼にゃあ及ばねえ。そこでおかみさん、しつこく訊くようだが、その猫がどうしたのかえ。その猫が逃げたんじゃあねえか」
「逃げたのならまだいいんですけど……」と、女房は小声で云った。「殺されたんですよ」
「誰に殺された」
「それがおかしいんですよ。富さんのいない留守に化け猫と間違って殺されてしまったんですが、そりゃあ無理もありません。あの猫は踊るんですもの」
「それじゃあ商売物だね」
「まあ、そうです。これからだんだん仕込もうというところを、化け猫だと思って殺されてしまったんですよ。富さんも大変に怒りましてね」
一朱銀の効き目で、女房はその日の出来事をぺらぺらとしゃべり出した。
三
富蔵の隣りにお津賀《つが》という二十五六の小粋《こいき》な女が住んでいる。よほどだらし[#「だらし」に傍点]のない女で、旦那取りをしているというのであるが、定《きま》った一人の旦那を守っているのでは無いらしく、大勢の男にかかり合って一種の淫売《じごく》同様のみだらな生活を営んでいるのだと近所ではもっぱら噂された。そのお津賀のところへ稀《まれ》にたずねてくる五十くらいの男があって、それは自分の叔父さんで、一年に一度ずつ商売用で上州から出て来るのだと彼女は云っているが、どうも上州者ではないらしく、又ほんとうの叔父さんではないらしい。それも例の旦那の一人であろうと長屋じゅうの者には認められていた。
四、五日前の夕方に、その叔父という人が久し振りにたずねて来ると、あいにくお津賀はいなかった。かれは独身者で、外へ出るときに表の戸にしっかり[#「しっかり」に傍点]と錠《じょう》をおろしてゆくので、叔父ははいることが出来なかった。うす暗い門口《かどぐち》にぼんやりと立っている男の姿を気の毒そうに見て、井戸端から声をかけたのがこの女房であった。黙っていればよかったが、お津賀さんの帰るまで隣りの家へはいって待っていろと彼女は教えてやった。となりは富蔵の家で、かれは戸をあけ放したままで町内の銭湯《せんとう》へ出て行った留守であったが、奪《と》られるような物のある家では無し、殊にその男の顔も見知っているので、女房も安心してそう教えたのであった。すこし酔っているらしい男は礼を云って隣りへはいって、上がり框《がまち》に腰かけているらしかったが、そのうちに三味線をぽつんぽつんと弾《ひ》き出した音がきこえた。かれはお津賀の家へ来ても時々に三味線を弾くことがあるので、女房も別に不思議には思わないで自分の米を磨《と》いでしまって家へ帰った。
「それからが騒動なんですよ」と、女房は顔をしかめて話した。「富さんの家で何かどたんばたん[#「どたんばたん」に傍点]という音が聞えたから、どうしたのかと思って駆けつけてみると、富さんは湯あがりの頭からぽっぽっ[#「ぽっぽっ」に傍点]煙《けむ》を立てて、その叔父さんという人の胸倉を掴んで、ひどい権幕で何か掛け合いを付けているんです。だんだん訊《き》いてみると、その人が富さんの猫を撲《ぶ》ち殺してしまったという一件なんです」
「なぜ殺したんだろう。だしぬけに踊り出したのかえ」と、半七は訊いた。
「そうなんですよ。踊り出したんですよ」
女房の説明によると、富蔵は自分の飼っている白い仔猫に踊りを仕込むために、長火鉢に炭火をかんかん熾《おこ》して、その上に銅の板を置く。それは丁度かの文字焼を焼くような趣向である。その銅の板の熱くなった頃に仔猫の胴中を麻縄で縛って、天井から火鉢の上に吊りさげて、四本の足が丁度その銅の板を踏むようにすると、板は焼け切っているから、猫はその熱いのにおどろいて、思わず前後の足を代る代るにひょいひょい揚げる。それを待ち設けて、富蔵は爪弾きで三味線を弾き出すのである。勿論はじめのうちは猫の足どりを見て、こっちで巧く調子を合わせて行かなければならないのであるが、それがだんだんに馴れて来ると、猫の方から調子にあわせて前後の足をひょいひょいと揚げるようになる。更に馴れて来ると、普通の板や畳の上でも三味線の音につれて自然に足をあげるようになる。観世物小屋で囃し立てる猫の踊りは皆こうして仕込むので、富蔵もふた月ほどかかってこの白猫を馴らした。
根気よく馴らして教えて、猫もどうやら斯うやら商売物になろうとしたところを、かの男に突然撲ち殺されてしまったのである。勿論、殺した方にも相当の理窟はあった。かれは框に腰をかけてぼんやりと待っている退屈まぎれに、壁にかけてある三味線をふと見付けて、少し酔っている彼はその三味線をおろして来てぽつんぽつんと弾きはじめると、長火鉢の傍にうずくまっていた白猫が、その爪弾きの調子にあわせて俄かに踊り出した。彼は実にびっくりした。うす暗い夕方の逢魔《おうま》が時《とき》に、猫がふらふらと起って踊り出したのであるから、異常の恐怖に襲われた彼は、もう何もかんがえている余裕もなかった。かれは持っている三味線を持ち直して猫の脳天を力任せになぐり付けると、猫はそのままころりと倒れて死んだ。そこへ飼い主の富蔵が帰って来た。
誰がなんと云おうとも、ひとの留守へ無断にはいり込むという法はないと富蔵は怒った。おまけに大切な商売物をぶち殺してしまって、この始末はどうしてくれると彼は眼の色を変えて哮《たけ》った。その事情が判ってみると、男もひどく恐縮していろいろにあやまったが、富蔵は承知しなかった。自分も係り合いがあるので、かの女房も一緒に口を添えてやったが、富蔵はどうしても肯《き》かないで、殺した猫を生かして返すか、さもなくばその償《つぐな》い金を十両出せと迫った。それをいろいろにあやまって、結局半金の五両に負けて貰う事になったが、男にはその五両の持ち合わせがないので、どうか大晦日《おおみそか》まで待ってくれと頼むのを、富蔵は無理におさえ付けて、腕ずくでその紙入れを
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