いますから、何だか気怯《きおく》れがして、しばらく様子を窺って居りますと、ふたりはだんだんに酔いが廻って来まして、つまらないことから喧嘩をはじめましたが、お津賀もきかない気の女ですから、とうとう立ち上がって掴み合いになろうとするはずみに、そばにある行燈《あんどう》を倒しました。富蔵はもう酔っているので自由に身動きも出来ません。お津賀はあわててその火を揉み消そうとしましたが、これも酔っているので思うようには働けません。唯うろたえてまごまごしているうちに、火はだんだんに拡がってお津賀の裾や袂に燃え付きました。わたくしは呆気《あっけ》に取られて眺めていますと、お津賀はもうからだ中が一面の火になってしまいまして……」
その当時の凄惨な光景を思い出すさえ恐ろしいように、市丸太夫は身ぶるいした。
「結い立ての天神髷を振りこわして、白い顔をゆがめて、歯を食いしばって、火焙《ひあぶ》りになって家中《うちじゅう》を転げ廻って、苦しみもがいている女の姿は……。わたくしのような臆病者にはとてもふた目とは見ていられませんので、思わず眼をふさいでしまいますと、お津賀ももう堪まらなくなったのでございましょう。框《かまち》から土間へ転げ落ちたような物音がきこえました。わたくしははっ[#「はっ」に傍点]と思って再び眼をあきますと、お津賀の燃えている姿は井戸の方へ……。からだの火を消す積りか、それともいっそ一と思いに死んでしまう積りか、それはわたくしにも能く判りませんでしたが、ともかくも井戸側の上で火の粉がぱっ[#「ぱっ」に傍点]と散ったかと思うと、お津賀の姿はもう見えなくなったようでございました。富蔵は……どうしたのか存じません。もうその頃には家中いっぱいの火になっていました。その騒ぎを聞きつけて近所の人達がばたばた[#「ばたばた」に傍点]駈け付けて来ましたので、わたくしも度を失いまして、ここらにうっかりしていて、とんだ連坐《まきぞえ》を受けてはならないと、前後のかんがえも無しにあの稲荷の祠《ほこら》のなかに隠れましたが、もしその火が大きくなってこっちへ焼けて来たらどうしようかと、実に生きている空もございませんでした。幸いに火は一軒焼けで鎮まりましたが、大勢の人が火元を取りまいてわやわや[#「わやわや」に傍点]騒いでいるので、いつまでも出るに出られず。わたくしも途方に暮れているところを、とうとうお前さんに探し当てられてしまいました。行燈を倒したときに、わたくしも早く駈け込んで、一緒に手伝って消してやればよかったのでございましょうが、わたくしは唯びっくりして居りまして……」
びっくりしていたばかりではない。そこに残酷な復讐の意味が含まれているらしいのを半七は想像しないわけには行かなかった。
「おめえが直接《じか》に手をおろさないで、お津賀も富蔵も一度に片付けてしまえば、こんな世話のねえ事はねえ」と、半七は皮肉らしく云った。「だが、おめえも罪な人間だ。才蔵の松若はおめえの使に行く途中で凍《こご》え死んでしまったぜ」
「松若が死にましたか」と、市丸太夫は更にその顔を蒼《あお》くした。
「その鬼っ児をかかえて行く途中で、あんまり酒を飲み過ぎたせいだろう。食らい酔ったままで鎌倉河岸にぶっ倒れて、可哀そうに凍え死んでしまったんだ。鬼っ児に別条はねえ。親元が判ったらこっちから渡してやる。おめえにうっかり渡して、又なにかの種に使われちゃあ堪まらねえから」
市丸太夫はもう一言もなかった。彼はゆがんだ皺面《しわづら》を灰いろにして、死んだ者のようにうずくまっていた。
長い牙を持った因果者の赤児は、生みの母のお北に引き渡された。市丸太夫は表向きに彼を罪にすべき廉《かど》もないので、ただ叱り置くというだけで免《ゆる》されたが、すぐに宿を引き払って故郷へ帰った。それから後の江戸の春に市丸太夫の万歳すがたはもう見えなくなった。
底本:「時代推理小説 半七捕物帳(二)」光文社文庫、光文社
1986(昭和61)年3月20日初版1刷発行
入力:tat_suki
校正:おのしげひこ
1999年9月11日公開
2004年2月29日修正
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