も親分の前で自分に恥をかかした富蔵を、亀吉は心から憎んでいた。きのう半七に別れてから彼は吉原へ遊びに行ったが、あまり好くも扱われなかったむしゃくしゃ腹で、引け前に廓《くるわ》を飛び出して、阿部川町《あべかわちょう》の友達を叩き起して泊めて貰った。彼もこの強い風に枕を揺《ゆす》られておちおち眠られずにいる耳もとに、人の立ち騒ぐような声が遠くひびいた。火事かしらとすぐに飛び起きてその騒がしい方角へ駈け付けてみると、果たして火事には相違なかったが、それは稲荷町の長屋の一軒焼けで鎮まった。
 火事は先ずそれで済んだが、済まないのは、その火元に男が死んでいることである。死んだ男はかの富蔵であった。一つ長屋のお津賀の死骸も井戸から発見された。
「こういうわけだから私ひとりじゃいけねえ。お前さんも早く来ておくんなせえ」
「よし、すぐに行く。なにしろ飛んだことになったものだ」
 半七は身支度をして、亀吉と一緒に出てゆくと、師走二十九日のあかつきの風は、諸刃《もろは》の大きい剣《つるぎ》で薙《な》ぎ倒そうとするように吹き払って来た。ふたりは眼口《めくち》をふさいで転げるようにあるいた。稲荷町へ行き着いてみると、富蔵の家は半焼けのままで頽《くず》れ落ちて、咽《む》せるような白い煙りは狭い露路の奥にうずまいて漲《みなぎ》っていた。町内の者も長屋の者も、その煙りのなかに群がってがやがや[#「がやがや」に傍点]と騒いでいた。
「どうも騒々しいことでした」
 きのうの女房を見掛けて半七が声をかけると、あわて眼《まなこ》のかれも一朱くれたきのうの人を見忘れなかった。
「きのうはどうも……。でも、まあ、この風でこのくらいで済めば小難でした」
「小難はおめでてえが、なにか変死があるというじゃありませんか。焼け死んだのですか」と、半七は何げなく訊いた。
「それが判らないんです。あの富さんが焼け死んで……。お津賀さんも……」
「そうですか」
 半七はすぐに火元へ行った。もうこうなっては仮面《めん》をかぶっていられないので、かれは自分の身分を名乗って、家主《いえぬし》立ち会いで焼け跡をあらためた。近所の人達が早く駈け付けて、すぐ叩き毀してしまったので、半焼けと云っても七分通りは毀れたままで焼け残っていた。半七はその家のまわりを見廻りながら、ふとその隣りの稲荷の祠《ほこら》に眼をつけた。
「この稲荷さまは無事だったんですか」
「火の大きくならなかったのも、お稲荷様のおかげだと云って、長屋じゅうの者も喜んでいます」と、家主は云った。
「喜ぶのは間違っている」と、半七はあざ笑った。「お稲荷さまに御利益《ごりやく》があるなら、はじめからこんな騒ぎを仕出来《しでか》さねえがいい。家を焼いて、人を殺して、御利益もねえもんだ。いっそ刷毛《はけ》ついでにこの稲荷も燃《も》してしまっちゃあどうです」
 無法なことを云うとは思ったらしいが、相手が相手なので、家主は苦《にが》り切って黙っていると、半七は足下《あしもと》にまだちろちろ[#「ちろちろ」に傍点]と燃えている木のきれを拾って松明《たいまつ》のように振りあげた。
「ようがすかえ。この稲荷に火をつけますぜ」
「お前さん。とんでもないことを……」
 家主はあわててその腕を押えると、半七は委細かまわず又呶鳴った。
「ええ、構うものか、こんな稲荷……。さあ、焼くぞ、こんな燧石箱《ひうちばこ》のような小っぽけな祠《ほこら》は、またたく間に灰にしてしまうぞ。野良狐《のらぎつね》が隠れているなら早く出て来い」
 稲荷様もこれには驚いたのかも知れない。その声に応じて正面の扉がさっとあいた。しかも這い出して来たのは野良狐ではなかった。それは頭から煤《すす》を浴びた五十前後の男であった。
「お前は市丸太夫だろう。正直にいえ」と、半七はかれの腕をつかんだ。「どうも稲荷様の中でごそごそ[#「ごそごそ」に傍点]いうと思ったら、案の定《じょう》こんな狐が這い込んでいた。さあ、番屋へ来い」
 町内の自身番へ引っ立てられて行った男は、果たして彼《か》の市丸太夫であった。かれはふところに小刀《こがたな》を呑んでいたが、その刃には血の痕がなかった。
「お前は富蔵を殺して、火をつけたのか」
「恐れ入りました」と、市丸太夫は白状した。「全くわたくしは富蔵を殺そうと存じてまいりました。しかし殺さないうちに火事が出て、富蔵は焼け死んだのでございます」
「なぜ富蔵を殺そうとした」
「わずかの金に差し支えましたのでございます」
 かれは誤って富蔵の猫を殺した始末を正直に申し立てた。それは長屋の者の推察通り、彼は一昨年の春からお津賀に関係して、毎年江戸へ出るたびに彼女のところへ訪ねて来て、松の内に稼ぎためた金の大部分を絞り取られていた。今年も一年ぶりで訪ねて来ると、あいにくお津賀
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